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  • 執筆者の写真元気牧師

11月11日(金)



【聖句】


兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、

大胆にまことの聖所にはいることができるのです。


(新約聖書・ヘブライ人への手紙10章19節[新改訳])



【黙想】


ある人は言いました。


500年前の宗教改革は、

ルターがローマ書やガラテヤ書を

再発見したことによって始まった。


もし第二の宗教改革が起こるとしたら、

今度はきっと、

「ヘブライ書」の再発見によって始まるだろう。



どういう意味でしょうか。


16世紀の宗教改革では

ローマ書やガラテヤ書に記されている

「信仰によって義とされる」という

真理が見出されました。


人は、自分の行いによってではなく、

ただ信じること、信仰によって義とされるのだ、と。



しかし、私は思います。

「信じることで義とされる」

「信仰によって救われる」ということが強調された結果、

人々は次第に、

「自分の信仰は本物か」

「自分がどれくれい信じているか」

「自分がどれくらい信仰者らしく生きているか」

というように、

いつのまにか「ジブン」に注目し始めてしまう。


気づかないうちに、

眼差しが自分に向いてしまう。


だから、「信仰のみ、なんだよ」と聞かされても、

それが喜びや平安をもたらすよりも、

むしろ終わりなき自問自答を引き起こし、

平安と不安の間をヤジロベーみたいに

行ったり来たりする不安定な状態になってしまっているのではないか。


もしそうだとするなら、

結局、宗教改革以前の

「自分の行いによって救われようとする」という状態に

逆戻りしていることになるのではないか。



「私はそんなことはない」ですって?


じゃあこう言い換えて見ましょうか。


あなたは、どんな時でも変わることなく

父なる神様の御前に出ることができますか。


 今日はいつもより早起きして祈れたし、

 聖書を4ページも読めたし、

 家族にもやさしく接することができた。

 だから、顔をあげて神様の前に出られるぞ^^


 ・・・


 今日は朝から主人と言い争ってしまった。  

 なんだか憂鬱な気分だなあ。

 しまった、もう出かける時間。

 あ、聖書を教会に忘れてきてしまった・・・。

 こんなんじゃ、神様の前に出ることなんかできない><。


あなたの毎日は、

こんなことの繰り返しになっていませんか?


日々ヤジロベーしてませんか?



もし身に覚えがあるなら、

今日限りでやめてください。


そして、今日の聖句を胸に刻んでください。


兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、

大胆にまことの聖所にはいることができるのです。


私達が神様の前に出ることができるのは、

私達が神様に愛されている子として聖所に入ることができるのは、

あなたの日頃の行いが良いからではありません。

あなたの善行やあなたが今日30分祈れたからではありません。


イエスさまの血のゆえです。

主イエスの十字架のゆでです。


これ以外の根拠などどこにもありません。


そして、この根拠ー主イエスの血、十字架ーは、

完全で不可逆的なものです。


私たちは、イエスの血によって、

大胆にまことの聖所にはいることができるのです。


だから、

信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。

(10:22[新共同訳])



ああ、思わず長くなりました。


第二の宗教改革はきっと、

「信仰」の対象である

「イエス・キリストの十字架の血」の力が

再発見されることになるでしょう。


人々が「難しい~」と思い込まされている、

『ヘブライ人への手紙』の再発見によって。



【小さな祈り】


天の父よ。

どんな日も、

どんな私でも、

大胆にあなたの御前に出、

信頼しきってあなたに近づくことができます。

イエスさまの尊い血のゆえに。

イエスさまの十字架につかまって。

それがどんなに

人の目には価値あるものに思われるとしても、

私が、イエスさまの十字架の血以外のものによって

あなたの前に出ようとすることがありませんように。

わたしたが、自らの信仰に注目しすぎるあまり、

どなたを信じているか、ということを

見失うことがありませんように。

*あなたの言葉で祈りを続けてください。

アーメン。






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