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  • 執筆者の写真元気牧師

10月8日(土)




【聖書】


もし信じるなら、

神の栄光が見られると、

言っておいたではないか。


(新約聖書・ヨハネ福音書11章40節)



【黙想】


兄弟ラザロが重い病で死の床にあった。


姉妹であるマルタとマリアは主イエスに助けを乞い、

「急いで来てください」と願い出た。


しかし主イエスが到着する前にラザロは息絶え、

墓に葬られてしまったのです。


ラザロの埋葬から四日後。

主イエスが到着し、

「わたしは復活であり祈りである」と宣言して、

墓の前で「その石を取りのけなさい(墓を開きなさい)」とおっしゃいました。


すぐさまマルタは叫びました。

「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。



そう。

ここに、人間の側からは越えられない境界線があります。


ラザロの墓の前だけではなく、

私たち人間には、どうしても、

これ以上先に進めないと思う境界線があります。

というか、境界線を引いているのです。私たちは。


そこに境界線を引く理由は、正当なものです。


マルタは言いました。

「主よ、もう四日も経っています。」


わたしたちも言うでしょう。

「主よ、もうこんな歳です。」

「主よ、もうこれしかありません。」

「主よ、もう手の施しようがないと言われたのです。」


どれも正当な理由なのです。


しかし主イエスは、その私たちの側の理由を受けとめつつも、

それゆえ共に涙を流しつつも(11:33-35)、

いっそうまなじりを決して、こうおっしゃるのです。



もし信じるなら、神の栄光が見られる。



信仰は、自分で引いた、自分の境界線の向こうに踏み出すことです。


美しい景色を見るために、

人は山を登り、

川を越え、

国境を越えてその向こうに身を乗り出します。


神の栄光を見るために、

私たちは、自分で引いた、

人間的にはとても理にかなった一線を、

信仰によって越えていくのです。


その時必要なのは、

能力や腕力、財力や権力ではありません。

むしろそれらの人間的なチカラをそっとしまって、

幼子のようになること。


疑いながらでもいいんです。

不安が消え去っていなくたってかまいません。


それでもなお、石を取りのけるのです。

信仰の世界、向こう側へのドアを開ける鍵は、

「従順」という名の鍵です。


マルタは、石を取りのけました。

震える手で。疑いや恐れを抱えながら。

でも、従順に、言われたとおりに。


そして、彼女は、兄弟ラザロと再び相まみえました。



【小さな祈り】


天の父よ。

あなたの栄光を見たいです。

「神の栄光が見られる」。

なんとすばらしい言葉でしょう。

「もし信じるなら」とあなたはおっしゃいました。

それ以外の条件を、あなたはおっしゃいませんでした。

もし信じるなら、神の栄光が見られる。

どうか主よ、信じさせてください。

疑い、迷い、不安、恐れ、

わたしの内に渦巻くれらのものが、

「もう四日も経っているではないか」と叫んでいます。

「そんなことをして何になる」と吠え猛っています。

主よ、どうか私が、

それがあなたの言葉であるという理由だけで、

あなたの御言葉に従順になることができますように。

*あなたの言葉で祈りましょう。

アーメン。



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