
【聖句】
絶えず祈りなさい。
(新約・1テサロニケ5:17)
【黙想】
え!?
なんでこの聖句が「祈れないとき」に効くかって!?
てか、なんで咳込んでる人の写真なの!?って?
幼稚園の先生たちとの学びで読んだテキストに、
「絶えず祈りなさい」という聖句を巡って
次のような言葉が記されていました。
祈ることそのものに抵抗がある方には、それを「絶えず」と言われていることにまずつまずいてしまいますね。「絶えず」というのは、古代ローマでは、例えば「しつこい咳に苦しめられている人」を表現するときに使われました。咳が苦しいのは、一切中断なくというより、繰り返し断続的に咳が出て苦しいのです。だからそれは、しつこい咳に苦しむ人が、咳を常に意識している状態のことを表しています。つまり、「絶えず祈りなさい」というのは、一秒も休まず祈り続けなさいという意味ではなく、むしろ主なる神のご臨在を常に意識している状態のことを示しているのです。常に神を思うことです。自分の中に、いつも神を思う思いがあること。意識のどこかで、自分を造られた神、自分を守られる神を持っているということです。 大事なことは、「どう祈るべきか」ではなく、「誰に祈るのか」なのです。 *キリスト教保育連盟発行『キリスト教保育』2022年8月号より
すごく大切なことが言われていると思うのです!
私たちはしばしば、
「祈りなさい」と教えられ、
「祈らねば」と思い、
「祈れない」と思い悩むのです。
そのとき私たちは気づかないうちに、
「いかに祈るべきか」ばかりに意識を向けていないでしょうか。
「どう祈ればいいのだろうか」と思い煩っていないでしょうか。
そうです。
祈りの中ですら私たちは、
神を思わず、
自分自身に、自分自身の業に意識を向けてはいないでしょうか!
もしそうだとすれば、どうして祈りの醍醐味を、
祈りの喜びを、力を、慰めを、味わうことができるでしょうか!
兄弟姉妹、
「いかに祈るべきか」ではなく、
「誰に祈るのか」、そう、
祈りの相手に意識を向けていくことが肝心要なのです。
イエス・キリストはこう言われました。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。(マタイ6:6)
窓もない納屋のような部屋に入って戸を閉める。
真っ暗な部屋に閉じこもるのは、
他人の目から自分を隠すためだけでなありません。
自分自身の目に対して自分を隠すためでもあるのです。
そしてただ意識を、祈りの相手に向けていく。
私たちは自分で自分の祈りの声や言葉を聞いてしまうから、
祈りの中ですら自分自身に意識を向けてしまっているから、
そして祈りの中ですら無意識のうちに自分を飾ってしまうから、
祈りが出てこない。
祈りがつまらない。
祈りが分からない。
上で引用したテキストには、続けてこんなふうにも記されていました。
なぜ祈るときに、手を組んで祈りなさい…と教えられているのでしょうか。それは、すべてを中断するしるしです。その手が何の業もせずに、神の前に降参するしるしでもあります。あなた無しには、私という存在はありません!自分の手の業に頼るのではなく、すべてをあなたに委ねます!という、そういう神への思いの表れなのです。
ほんとうにその通り。
皆さん、手を組んででもいい、
空っぽの手を惜しげもなく開いてでもかまわない、
神様に、
「あなた無しでは、わたしには何もない!何もできない!」と
伝えてください。
その空っぽの手の上に、
主は、必ずあなたへの恵みを盛ってくださいます。
【小さな祈り】
主よ、いま、私は
自分の手の業をすべて中断します。
そして心をあなたに向けます。
わがたましいよ、主をほめよ。
わがうちなるすべてのものよ、 その聖なるみ名をほめよ。
わがたましいよ、主をほめよ。 そのすべてのめぐみを心にとめよ。
主よ、今は、
あなたに心を向けることを、
わたしの祈りと致します。
あなたを思うことを、
わたしの捧げものといたします。
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*あなたの言葉で、続けて祈りましょう。
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アーメン
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