【聖句】
安息日は、人のために定められた。
人が安息日のためにあるのではない。
(新約聖書・マルコによる福音書2章27節)
【黙想】
2024年。新しい年。
心騒ぐ、心痛むニュースからはじまりました。
主が被災された方々を、つらい思いをしている人たちを励まし、
心身の必要を満たしてくださるように祈ります。
いろいろと「心配」していらっしゃる方も多いでしょう。
でも、冷たいことを申し上げるようですが、
「心配」からはあまり有意義なものは生まれません。
自分自身の心の内にある心配だけに心を動かされると、
被災された方々の心に寄り添うよりも、
心配している「自分」の心を満たそうとして
自己満足的な行動をとってしてしまうからです。
今、私たちがなすべきことは、
正確な情報を得ること、
今はどのような支援をなすべきかのニーズを把握すること、
そのニーズにこたえるべく行動すること、
そして、主にとりなし祈ることです。
さて、今日の聖句の黙想です。
福音書を読んでいると、
イエスさまと敵対者が「安息日」の理解を巡って
激しく論争、対立している様子があちこちに記されています。
今日の箇所もそう一つです。
先日、エレミヤ書やイザヤ書などを読んでいるとき、
あらためて気づかされたことがあります。
それは、主なる神様が、
「安息日」というものを不思議なほど、大変重要視しているということです。
少し長い引用になりますが、
一例として以下のエレミヤ書の言葉を読んでみてください。
なぜこんなに「安息日」を重んじられるのだろうと不思議に思うはずです。
17:21主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。 17:22また安息日に、荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい。 17:23それをわたしはあなたたちの先祖に命じたが、彼らは聞き従わず、耳を貸そうともしなかった。彼らはうなじを固くして、聞き従わず、諭しを受け入れようとしなかった。 17:24主は言われる。もし、あなたたちがわたしに聞き従い、安息日にこの都の門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、 17:25ダビデの王座に座る王たち、高官たち、すなわち車や馬に乗る王や高官、ユダの人々、エルサレムの住民が、常にこの都の門から入り、この都には、とこしえに人が住むであろう。 17:26ユダの町々、エルサレムの周囲、ベニヤミンの地、シェフェラ、山地、ネゲブなどから、人々は焼き尽くす献げ物、いけにえ、穀物の献げ物、乳香をもたらし、主の神殿への感謝の献げ物とする。 17:27もし、あなたたちがわたしに聞き従わず、安息日を聖別せず、安息日に荷を運んで、エルサレムの門を入るならば、わたしはエルサレムの門に火を放つ。その火はエルサレムの城郭を焼き尽くし、消えることはないであろう。
申し上げるまでもなく、
「安息日を守り、聖別する」というのは十戒の第4の戒めですね。
私は最近、あらためてこの「安息日」の大切さに気づかされているのです。
十戒の1から10までのうちで一番大事な戒めを一つ選べ、と言われたら、
たいていの人が「わたしのほかに何も神があってはならないという第一戒だと答えるのではないでしょうか。
もちろん、冒頭の第一の戒めは間違いなくとても重要です。
けれども、十戒を守って生きるという信仰生活の「実践的」な側面から見ると、
実は一番大切な戒めは「第4戒」の「安息日を聖別せよ」という戒めだと私は思えてなりません。
安息日を聖別する。
神様との「関係性」を修復し、
自分が人間に過ぎないことを思い起こす。
そして恵みのリズムを取り戻して再出発していく。
ここから、すべてが始まる。すべてが整えられる。
すべてが修復される。
山上の説教の中でイエス様が、
「空の鳥をよく見なさい」
「野の花がどのように育つか注意して見なさい」と言われました。
この「よく見なさい」「注意して見なさい」という言葉は、
いずれも「徹底的に、じっくりと、観察する」という意味の言葉です。
わたしは思います。
鳥を、野の草花を、
徹底的に、じっくりと、ゆっくりと、
見つめ続け、観察せいよとイエスさまはおっしゃった。
これって、相当に時間がかかる行為だよなあ。
子どもがずっと背中見つめてダンゴムシを見つめているような、
だいぶゆったりした、時間にいとめをつけない行為だよなあ。
ああ、そうか。
イエス様はきっと、安息日のことを言っているんじゃないか。
安息日をしっかりと守る。
仕事をせず、主の創造の御業に思いを巡らす。
そういうことなんじゃないか、って。
そう考えると、イエスさまの山上の説教の「思い悩むな」という箇所が、
また違った響きを帯びてきます。
忙しい人ほど、
安息日を聖別しなければなりません。
というか、安息日を守り聖別するというのは、
どうするか選択できるオプションではなく、
そうせよと命じられていることですから、
私たちは、休まなければならないのです。
頑張ることは良いことですが、
頑張り過ぎることは、罪なのです。
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