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執筆者の写真元気牧師

9月5日(火)



【聖句】


もし完全になりたいのなら、

行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

そうすれば、天に富を積むことになる。

それから、わたしに従いなさい


(マタイによる福音書19章21節)



【黙想】


ある日、主イエスのもとに青年がやってきてこう尋ねました。


「先生、永遠の命を得るには、

 どんな善いことをすればよいのでしょうか。」


主イエスは彼に答えました。

「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

そういって、十戒の一つ一つを示されました。


すると彼はこう答えました。

「そういうことはみな守ってきました。

 まだ何か欠けているでしょうか。」



兄弟姉妹、

この人は何をしに来たのでしょうか。

みなぎる求道心から、

身を低くして主イエスに教えを乞うているのでしょうか。

そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。

たぶん、そうではないのです。


彼は、自分の正しさを認めてほしかったのです。

彼は、自分を正当化するために主イエスを利用したかったのです。



胸に手をあてて考えてみると、

実は私たちにもそういう思いが隠れているのかもしれません。

自分自身の考えや思いを肯定し、

認めてくれるメッセージは喜んで受け入れる。

けれども、変らねばならない、

今のままではいけない、という響きを帯びた言葉は

最初から受け入れる気持ちを持っていない。


そういう言葉を聞かされると、

「あの話はおかしい」と裁いて、おしまい。



私たちは、何のために教会に、主イエスのもとに、やってくるのでしょうか。

自分の正しさを確認するため?

自分の生き方を肯定してもらうため?


もしそうなら、

私たちもまた、この青年と同じ結末を迎えてしまうかもしれません。


話はこう続きます。


・・・

イエスは言われた。

「もし完全になりたいのなら、

行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

そうすれば、天に富を積むことになる。

それから、わたしに従いなさい。」


青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。

たくさんの財産を持っていたからである。

・・・



彼は、そこで立ち去らず、

自分の力で、自分の決心や精進努力だけで

完全になることができないことを認め、ひれ伏せばよかった。


しかし、彼はそうすることを選ばなかった。

主イエスの前から立ち去る道を選んだのです。


ある人はこう言いました。


この青年は、財産をささげることが嫌だったのではなく、

「わたしに従いなさい」と命じられたことに抵抗を覚えたのではないか。


誇ろうとして財産を、その大部分を、

慈善のためにささげることは

やりようによっては自分の正しさを増強することに利用できる行為でしょう。


しかし「主イエスに従う」というのは、

それとはまったく質の異なることです。


異なる生き方へと舵を切ることです。



はて、私たちはどうだろうか、と思うことがあります。










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