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執筆者の写真元気牧師

9月19日(月)



【聖句】


わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、

そして行き詰まりの状態にあっても、

キリストのために満足しています。

なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

(新約聖書・コリントの信徒への手紙二12章10節)



【黙想】


「わたしは弱いときにこそ強い。」

なんと矛盾に満ちた言葉でしょうか。

なんとつじつまの合わない言葉でしょうか。


しかしよく考えてみて欲しいのです。

信仰の神髄、神の恵みの精髄を語る言葉は、

実は、みな矛盾に満ちているのです。


主イエスはおっしゃいました。

「悲しむ人々は幸いである。」

「貧しい人々は幸いである。」

「今飢えている人は幸いである。」

「今泣いている人は幸いである。」

どれもみな矛盾に満ちた言葉です。

どれもみなちっとも成り立たない方程式です。

そうなんです、成り立たないんです、

もし私たちが独りきりならば。


考えてみてください。

たとえば、生後間もない赤ん坊が泣いている。

泣きじゃくっている。

もしその赤ん坊が、路上のベンチか駅のロッカーにいて、

独りで泣いているならば、それはそれは可哀想な赤ん坊です。


けれども、もし赤ん坊が、大泣きしているとしても、

その子が母の胸に抱かれているならば、

その赤ん坊は果たして可哀想でしょうか。

決してそうではありません。

その子は今泣いているとしても、

今飢えているとしても、

その子の母親が相応しい時に相応しい仕方でその子を慰め、

満たし、あやしてくれるはずです。

その子は独りではなく、

母と共に、母の愛のうちにあるのだから、

決して憐れではないのです。


「今泣いている人々は幸い」

「飢え渇いている人は幸い」という主イエスの言葉に続くのは

「その人は満たされる。その人は慰められる」という言葉です。


そう、満たしてくださる方が、

慰めてくださる方が、私たちと共におられるのです。


「弱いときにこそ強い」という言葉も同じ。

自分独りで聞くと、ただ矛盾した言葉に聞こえるのです。


わたしを強くしてくださる方がいる。

この大前提を見失わないでください。



【小さな祈り】


主よ。

一人だと弱い。

あなたとだと、強い。

まるで父の手を握る子どものように、

わたしもあなたの御手を握ります。

神よ、あなたがいてくださる、このことを常に

計算に入れ、

あなたの愛を大前提として、

感謝してのびのびと、生きていくことができますように。

*あなたの言葉で祈りましょう。

アーメン。



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