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9月19日(月)

  • 執筆者の写真: 元気牧師
    元気牧師
  • 2022年9月19日
  • 読了時間: 2分


【聖句】


わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、

そして行き詰まりの状態にあっても、

キリストのために満足しています。

なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

(新約聖書・コリントの信徒への手紙二12章10節)



【黙想】


「わたしは弱いときにこそ強い。」

なんと矛盾に満ちた言葉でしょうか。

なんとつじつまの合わない言葉でしょうか。


しかしよく考えてみて欲しいのです。

信仰の神髄、神の恵みの精髄を語る言葉は、

実は、みな矛盾に満ちているのです。


主イエスはおっしゃいました。

「悲しむ人々は幸いである。」

「貧しい人々は幸いである。」

「今飢えている人は幸いである。」

「今泣いている人は幸いである。」

どれもみな矛盾に満ちた言葉です。

どれもみなちっとも成り立たない方程式です。

そうなんです、成り立たないんです、

もし私たちが独りきりならば。


考えてみてください。

たとえば、生後間もない赤ん坊が泣いている。

泣きじゃくっている。

もしその赤ん坊が、路上のベンチか駅のロッカーにいて、

独りで泣いているならば、それはそれは可哀想な赤ん坊です。


けれども、もし赤ん坊が、大泣きしているとしても、

その子が母の胸に抱かれているならば、

その赤ん坊は果たして可哀想でしょうか。

決してそうではありません。

その子は今泣いているとしても、

今飢えているとしても、

その子の母親が相応しい時に相応しい仕方でその子を慰め、

満たし、あやしてくれるはずです。

その子は独りではなく、

母と共に、母の愛のうちにあるのだから、

決して憐れではないのです。


「今泣いている人々は幸い」

「飢え渇いている人は幸い」という主イエスの言葉に続くのは

「その人は満たされる。その人は慰められる」という言葉です。


そう、満たしてくださる方が、

慰めてくださる方が、私たちと共におられるのです。


「弱いときにこそ強い」という言葉も同じ。

自分独りで聞くと、ただ矛盾した言葉に聞こえるのです。


わたしを強くしてくださる方がいる。

この大前提を見失わないでください。



【小さな祈り】


主よ。

一人だと弱い。

あなたとだと、強い。

まるで父の手を握る子どものように、

わたしもあなたの御手を握ります。

神よ、あなたがいてくださる、このことを常に

計算に入れ、

あなたの愛を大前提として、

感謝してのびのびと、生きていくことができますように。

*あなたの言葉で祈りましょう。

アーメン。



 
 
 

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