【聖句】
わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、
そして行き詰まりの状態にあっても、
キリストのために満足しています。
なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
(新約聖書・コリントの信徒への手紙二12章10節)
【黙想】
「わたしは弱いときにこそ強い。」
なんと矛盾に満ちた言葉でしょうか。
なんとつじつまの合わない言葉でしょうか。
しかしよく考えてみて欲しいのです。
信仰の神髄、神の恵みの精髄を語る言葉は、
実は、みな矛盾に満ちているのです。
主イエスはおっしゃいました。
「悲しむ人々は幸いである。」
「貧しい人々は幸いである。」
「今飢えている人は幸いである。」
「今泣いている人は幸いである。」
どれもみな矛盾に満ちた言葉です。
どれもみなちっとも成り立たない方程式です。
そうなんです、成り立たないんです、
もし私たちが独りきりならば。
考えてみてください。
たとえば、生後間もない赤ん坊が泣いている。
泣きじゃくっている。
もしその赤ん坊が、路上のベンチか駅のロッカーにいて、
独りで泣いているならば、それはそれは可哀想な赤ん坊です。
けれども、もし赤ん坊が、大泣きしているとしても、
その子が母の胸に抱かれているならば、
その赤ん坊は果たして可哀想でしょうか。
決してそうではありません。
その子は今泣いているとしても、
今飢えているとしても、
その子の母親が相応しい時に相応しい仕方でその子を慰め、
満たし、あやしてくれるはずです。
その子は独りではなく、
母と共に、母の愛のうちにあるのだから、
決して憐れではないのです。
「今泣いている人々は幸い」
「飢え渇いている人は幸い」という主イエスの言葉に続くのは
「その人は満たされる。その人は慰められる」という言葉です。
そう、満たしてくださる方が、
慰めてくださる方が、私たちと共におられるのです。
「弱いときにこそ強い」という言葉も同じ。
自分独りで聞くと、ただ矛盾した言葉に聞こえるのです。
わたしを強くしてくださる方がいる。
この大前提を見失わないでください。
【小さな祈り】
主よ。
一人だと弱い。
あなたとだと、強い。
まるで父の手を握る子どものように、
わたしもあなたの御手を握ります。
神よ、あなたがいてくださる、このことを常に
計算に入れ、
あなたの愛を大前提として、
感謝してのびのびと、生きていくことができますように。
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*あなたの言葉で祈りましょう。
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アーメン。
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