【聖句】
生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。
(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙2章20節)
【黙想】
「パウロ神学の中心は、信仰義認論だ」などと言われます。
パウロが言いたかったことの中心。それは、
「人は行いによってではなく、神の恵みにより、
ただ信仰のみによって救われる」ということである、と。
確かに、パウロの手紙の中のあちこちに
このメッセージが記されています。
500年前の宗教改革も、
パウロの信仰義認の再発見からはじまったものです。
ですから「信仰義認」をいくら強調してもしすぎることはないでしょう。
ただ、信仰義認を語ることだけに終始してはなりません。
私は聖書を改めて読む中で、
パウロの信仰の精髄は、
実は信仰義認ではないのではないか、
との思いを抱くようになりました。
パウロの信仰のもっとも深いところ、もっとも核となるもの、
それが今日の聖句に現れていると思うのです。
今日の聖句の前後も含めて読んでみましょう。
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。
わたしが今、肉において生きているのは、
わたしを愛し、わたしのために身を献げられた
神の子に対する信仰によるものです。
いかがでしょうか。
固い言葉で言えば「キリストとの一体性」というものこそ、
パウロの信仰の核にあるのだと思うのです。
そしてこのことを可能にする根拠であり、
大前提となるものこそが「信仰義認」なのです。
【小さな祈り】
主なる神様。
イエスさまが絶望の淵にあった父親に言った言葉を
思い出します。
「恐れることはない。ただ信じなさい。」
私は今、様々な思いの交錯する中で、
あなたの御言葉につかまり、
あなたの御言葉を信じることを選び取ります。
生きているのはもはや私ではありません。
イエスさまがわたしの内に生きておられるのです。
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*あなたの言葉で感謝をささげ、
求めていることを神様にお伝えください。素直に。
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アーメン。
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