【聖句】
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
(新約聖書・ルカによる福音書23章46節)
【黙想】
牧師を続けられないと思い詰めるほど
悩み苦しみ葛藤していたある牧師がいました。
彼の奥さんは、
夫に助け手が与えられるようにと
断食しして必死に祈り続けていました。
しばらくして、彼はひょんなことから見ず知らずの一人の牧師と出会い、
主にある友情をあたため、いろいろな思いを分かち合うようになりました。
悩みの淵にあった牧師は、
思い切って彼に自らの思いを打ち明けました。
牧師をやめようと思っているのだ、ということも。
そしてこう率直にこう聞いたそうです。
「私に足りないものは、いったいなんだと思いますか。」
彼はすぐさま答えました。
「それはとても単純なことだ。
あなたに足りないのは『信頼』だよ。
神様のおっしゃったことは必ずなる、
神様には本当に、お出来にならないことはない、
という信頼だよ。」
牧師はあっけにとられて2分ほど絶句したそうです。
しかし、心の奥底に何か思うところがあったため、
彼にこう聞きました。
「わかった。
じゃあ、どうすれば私が神様を信頼していることを
あらわせるだろうか。」
すると彼は、こんどもすぐにこう答えました。
「自分ですべてをコントロールしようとすることをやめることだ。
神様がなさることにすべてをゆだねることだ。」
そして彼は、牧師に非常に具体的なアドバスをしました。
「今度の日曜日、説教原稿を持たずに講壇に立ちなさい。」
このまじめな牧師にとって、何も持たずに講壇に立つことは、
恐怖以外のなにものでもないことでした。
しっかりと推敲を重ねた、
起承転結ある説教原稿こそがすべてだったのです。
しかし、まさにこの「自分にとって一番安全なこと」を手放し、
すべてを聖霊の導きに明け渡すということこそ、
この牧師にとって最もインパクトのある訓練だったのです。
彼は火曜日にこの話を聞き、
数日悩んだ末、ついに決断しました。
そして次の日曜日、彼は初めて何も持たずに説教したのです。
礼拝がはじまる前から汗びっしょりになり、
奥さんに替えのシャツを持ってきてもらうように願うほどでしたが、
彼はその日、自分ですべてをコントロールすることをやめ、
主にすべてをお任せするという経験をしたのです。
結果はどうだったのでしょうか。
その日の礼拝後、
事情を全く知らないはずのある教会員が
涙を流しながら近づいてきて彼にこう言ったそうです。
「先生、もう二度と以前のように説教しないでください。
今朝のように語ってください。」
彼はそれ以降、二度と原稿を持って講壇にあがることをしなくなったそうです。
もちろん、このケースがどんな牧師にでも当てはまるとは思いません。
でも、とても大切なことが示されているように思うのです。
そう。
私たちは神様に従うといいながら、
あらかじめ自分で起承転結を思い描き、
自分の思い通りに事を運ぼうとしていないだろうか。
すべてをゆだねます、と祈りながら
心の中ではあれもこれも、自分の手で握りしめていないだろうか。
何を言おうか、
何をしようか、
あまりにも考えすぎていて
聖霊が自由に働くための余白がまったくないのかもしれません。
ある人はこう言っています。
聖霊の働きを一番、妨げているのは、
他の誰かや何かではなく、
実は私自身なのだ、と。
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