top of page
執筆者の写真元気牧師

8月28日(日)



【聖句】


あなたがたは、以前には暗闇でしたが、

今は主に結ばれて、光となっています。

光の子として歩みなさい。


(新約・エフェソの信徒への手紙5:8)



【黙想】


―光の子らしく歩みなさい。

―そうすればあなたがたは光となるのです。

―今、あなたがたは暗闇の子だからです。


・・・ではないのです。


あなたがたは今、既に、

主に結ばれて「光となっている」。

だから「光の子らしく」歩みなさい。


まるっきり反対のことが言われているのです。



兄弟姉妹、

光になろうとして

自分の暗いところばかりに思いを向け

そこをなんとか綺麗にしようと頑張るとすれば、

それは悪魔の思うつぼ。


人はそのような人を「真面目な人」と言うかもしれない。

けれども「真面目な人」ほど

実は、内側に暗くジメジメしたものを抱えていたり、

人のダメなところを受け入れられないドロドロした思いを

抱えていたりするものです。



聖書はいいます。


あなたがたは「主に結ばれて光となっている」。


私たちは「人を赦せない」と言います。

しかし主イエスは「あなたは赦せる」とおっしゃるのです。

私たちは「人を愛せない」と言います。

しかし主イエスは「あなたは愛せる」とおっしゃるのです。


あなたが「できない」と言うとすれば、

それはあなたが自分一人でするのだと思い込み、

それゆえ「私にそれができるかできないか」だけしか考えていない証拠です。


聖書のどこを読んでみても

「一人でしなさい」なんて書いてません。


あなたがたは「主に結ばれて」光となっている、と

書いてあるじゃないですか。


ちょっと立ち止まってください。



あなたと共におられる主イエスを忘れていませんか。


信仰生活が、いつのまにか個人技になっていませんか。


「神様、助けてください」と日々祈っているでしょうか。

たしかにその祈りは正しいと思います。

でも、もしその祈りが、

「自分がすることに主の力を貸していただく」ということだったら違います。


信仰生活とは、

神様ににお力添えをいただきつつ自分一人で生きていくことではなく、

常に主と共に歩むことです。


両者は似ているようで、

まるで違います。



【小さな祈り】


主なる神様。

使徒パウロの言葉を思い出しています。

"私は、私を強くしてくださる方によって、

どんなことでもできるのです。"(フィリピ4:13新改訳)

赦すこと。愛すること。

この試練を乗り越えること。

平和を作りだすこと。

あなたを証しすること。

信仰を貫くこと―。

どれも私にはできないことですが、

あなたと結ばれている私にならできます。

主よ・・・

*あなたの言葉で祈りを続けましょう。

アーメン。







閲覧数:19回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page