【聖句】
人にはできないが、神にはできる。
神はなんでもできるからである。
(新約・マルコ10:27[口語訳])
【黙想】
文脈を見てみますと、
この聖句は、救いようのない人間を神がお救いになるという、
「不可能の可能性」を宣言している言葉です。
思えば、聖書はこのような相矛盾するような言葉のオンパレードです。
「わたしは弱いときにこそ強い(2コリント12:10)」とか、
「彼(アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた(ロマ4:18)」とか。
アブラハムは、希望するすべがなかったのです。
ゼロだったのです。
それでもなお望みを抱いて、信じた、というのです。
聖書を読んでみましょう。
そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。(ローマの信徒へ手紙4:20~)
自分の可能性ではなく、神の可能性を信じる。
神の約束。神の御言葉。
受胎告知を受けたマリアも当初は自分自身を見て、
「ありえない」と言いました。
でも天使に「神に不可能はない」と言われて、
自分の可能性ではなく、
神の力に目をとめて、
はじめて本当に「神を」信じるようになったのです。
兄弟姉妹、
私たちも気づかないうちにいつのまにか、
自分の可能性の中に神様を閉じ込めていませんか。
とても当たり前のことですが、信仰とは、「神を」信じることです。
ですから、自分の中にまったく望みがなくても、
神を信じることにはなんの差し支えもありません。
【小さな祈り】
天の父よ!
気づかないうちにあなたのことを、
私の可能性の中に閉じ込めてしまっていました。
あなたの御言葉を聞くとき、
すぐさま私の心は、
「ありえない!」「そんなの無理だ!」とわめくのです。
しかし主よ、
確かに、あなたにはすべてのことが可能なのです。
だから私は、
たとえわたし自身のどこを探しても希望するすべがないときにも、
あなたの約束の中になら、わたしは望みを見いだすことができるのです。
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*あなたの言葉で一言祈ってください。
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アーメン。
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