【聖句】
我は復活なり、生命なり、
我を信ずる者は死ぬとも生きん。
(新約聖書・ヨハネによる福音書11章25節)文語訳
【黙想】
先週木曜日にあった
三重地区の牧師会では、
津示路教会の池田牧師の
発題を受けての学びでした。
津示路教会の開拓伝道を担った
女性伝道者、須藤とき牧師について
その横顔と説教を紹介してくださいました。
「須藤とき」の名前は
耳にしたことがありましたが、
どのような方であるかを教えて
いただいたのは初めてでした。
率直にいって、
私は大変感銘を受けました。
いろいろな学びがありましたが、
彼女は一貫して
「祈りの人」だったそうです。
彼女の口癖は、
『祈りましょう、祈りましょう』、
どんなことがあっても
『祈りましょう』だったそうです。
彼女が牧師館にいないときは
いつも津の砂浜で叫ぶように
祈ってたそうです。
津示路教会が建っている
今の土地を得たときにも、
彼女はエリコの城壁の周りを
祈りながらぐるぐる回った
イスラエルの民さながらに、
町や村を祈りながら練り歩いたのだそうです。
これらのエピソードを聞くにつけ、
彼女がまさに「祈りの人」
であったことが良く分かります。
津示路教会では、
ある意味ではそのような牧師が
牧会されていた名残として、
今も礼拝前に、礼拝への備えとして
「教会の祈り」を捧げているそうです。
現在は別の言葉を用いているようですが、
1987年までは須藤牧師が作成した
次のような祈りの言葉が
「教会の祈り」として毎週の週報に印刷
されていたそうです。
教会の祈り
イエス・キリストは主なり。
サタンよ、しりぞけ。
イエス・キリストは
よみがえりなり、命なり。
イエス・キリストの勝利を信ず。
イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
これは「祈り」を知っている人の
祈りです。
これは、
「キリストの御名によって」
祈るということの意味と力を
よく理解なさっている人の祈りです。
礼拝前の祈りとして、
このような祈りが、
礼拝の直前に、
全会衆によって捧げられていた教会…。
すごい。
この祈りを、
山田教会の礼拝前の祈りとしたい。
本当に、そう思わされました。
礼拝前だけじゃない、
個々人の一日の始まりの祈りとしても
本当に申し分のない祈りだと思います。
ぜひ、あなたの手帳にも
書き写しておいてください。
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