【聖句】
愛がなければ、無に等しい。
(新約聖書・コリントの信徒への手紙一13章2節)
【黙想】
コリントの教会は、
個々の信仰者たちに
聖霊の賜物が豊かに現われる、
いわば活動的で熱心な教会でした。
異言を語る賜物、
預言する賜物、
神の知識の賜物、
完全な信仰という賜物、
大胆に財産を捧げることができる
献身の賜物、
自己犠牲や奉仕の賜物…。
コリント教会は
多くの者が活動的で、熱心で、
燃えていたのでしょう。
ある種、羨ましいですよね。
しかし、なのです。
熱心で活動的であることは
素晴らしいことである反面、
まかり間違うと
人の心に、容易に兄弟姉妹を
裁く思いを生じさせ、
サタンに付け入る隙を
与えることになるのです。
使徒パウロはそのことを
よく分かっていました。
彼自身、かつて「熱心さ」のあまり
正しいことと信じて
キリスト者を迫害していた者でしたから。
人が己の熱心さによって、
正しさを振りかざす時、
そこに生まれてくるのは
傷しかありません。
事実、コリントの教会では
分裂、派閥、亀裂が生じはじめていました。
兄弟姉妹、
教会に必要なのは、
正しいだけの言葉ではなく、
「愛のある」言葉なのです。
使徒パウロの次の言葉を、
私たちは受け取りたく思います。
たとえ、人々の異言、
天使たちの異言を語ろうとも、
愛がなければ、
わたしは騒がしいどら、
やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、
あらゆる神秘と
あらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの
完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために
使い尽くそうとも、
誇ろうとしてわが身を
死に引き渡そうとも、
愛がなければ、
わたしに何の益もない。
熱心さだけで行動していないか、
正しさだけで語っていないか、
私たちはたえず顧みる必要があります。
もしかすると私たちは、
自分でも気づかぬうちに
「騒がしい銅鑼」
「やかましいシンバル」に
なってしまっているかもしれません。
何を隠そう、
まずこのことはまず第一に
説教者である私自身が真実に
向き合うべき言葉です。
そしてあなたにも
同じように向き合ってほしいと
主にあってお伝えしたく思います。
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