【聖句】
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを
心にかけていてくださるからです。
(新約1ペトロ5:7)
【黙想】
ゆだねるシリーズ第二弾。
日々「お任せします、おゆだねします」と祈りながら、
意外なほど、本当にはお任せしていない、
おゆだねできていないものです。
私たちは多かれ少なかれ、誰しもが心配性です。
これは一概に悪いこととは言えないでしょう。
けれども胸に手を当ててよく考えてみると、
心配性というものには、
実は「すべてのことを自分の思い通りにしたい」という、
とてもふくれあがった思いが潜んではいないでしょうか。
あるいはプライドのようなものすら隠れているかもしれません。
長年病床に伏しているあるクリスチャンの母親が
育ち盛りの我が子にまるで手をかけてあげられない悲しみや悔しさに打ちひしがれていたときのこと。そんな彼女に教会の友がこう言ったそうです。
「大丈夫よ、○○君は、神様が育ててくださるから。」
何気ない一言のように聞こえます。
言った本人も、何か畏まって改まって言ったのではないでしょう。
しかしこの一言が、
その後何十年にも渡って病床の彼女を支えることになったといいます。
「神さまが育ててくださる。」
彼女は、誇張ではなく文字通り母として何もしてやれない。
「神様、あなたにお任せします。」
どれほどの祈りの戦いがあっただろう。
どれだけの血みどろの祈りがなされたことだろう。
「生殺与奪の権」を主なる神に明け渡し、
その御前に全面降伏する。
聖書における祈りの姿勢の一つである「両手を挙げる」姿勢は、
そのまま「お手上げ、降参」の姿勢と同じです。
極めて単純なことです。
神が私のことを心配してくださっている(口語訳聖書)のに、
どうして私が心配する必要があるだろうか、ということ。
これを頭でではなく体で、肌で、霊で、知ることです。
だから聖書は、つべこべ言わずにただ命じるのです。
「思い煩いは何もかも神に任せなさい」と。
これは命令です。
「わたしに任せよ」と主は言われるのです。
【小さな祈り】
主よ。
心配性の裏に、
私の罪が隠れている。
そうだったのですね。
ほんとうに、そうです。
認めます。
あなたが私を心にかけていてくださり、
あなたが私のことを心配し
すべてを導いてくださっているのに
どうして私が心配の虜になる必要がありましょう。
主よ、助けてください。
わたしが心配の大水に流され
溺れそうになるとき、
聞かせてください。
思い出させてください。
「わたしに任せなさい!」とおっしゃる御声を。
「何もかも!!」と叫ぶ主の御声を。
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(あなたの言葉で続きを祈り、主の平安を受けとってください。)
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アーメン。
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