【今日の聖句】(イザヤ12:2)
見よ、わたしを救われる神。
わたしは信頼して、恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌
わたしの救いとなってくださった。
【黙想】
預言者イザヤの生きた時代。
南ユダ王国の人々は生ける神から離れ、
一見繁栄しているように見えた国は、霊的には死に瀕していました。
主は彼らを立ち返らせるために預言者イザヤを立て、
厳しい裁きの言葉を告げて彼らに悔い改めを迫ったのです。
そのメッセージの中には、
ユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされ、
多くの人が捕囚として連れ去られていくという出来事も預言されていました。
しか主は、預言者イザヤを通して、
ただ厳しい裁きについて、試練について、苦しみについて告げられただけではなく、
その後に訪れる慰めと回復の約束まで語ってくださっていたのです。
見よ、わたしを救われる神。 わたしは信頼して、恐れない。 主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。
今日のこの聖句の直前にはこのように記されています。
やがて訪れる裁き。苦難。試練。
その中でユダ王国の人々はどんなにか苦しみ、嘆き、涙したことでしょう。
70年に及ぶバビロン捕囚はどんなに辛い試練の時であったことでしょう。
しかし主はそんな彼らに約束しておられるのです。
その日が来るならば、時が満ちるならば、
あなたたちのその口は、必ず喜び歌うようになるのだ、と。
兄弟姉妹。
「どうしてこの嘆きが、いったいどうやったらこの涙が、
喜びの叫び、感謝の歌に変わるだろうか。
この涙が、この涙だけは、
決して、喜びの歌になんか変わることはない。」
―そのように思っていることがありませんか。
しかし、主は言われるのです。
その日が来れば、主がお定めになった時が来るならば、
あなたのまさにその涙が、
喜びの叫びに、感謝の歌に、変えられるのだ、と。
にわかには信じがたいことです。
不可能だ、と思うでしょう。
捕囚の地バビロンでこの約束を聞いた人々も「あり得ない」と思ったはずです。
しかし、聖書にはこう記されています。
主に不可能なことがあろうか
創世記18章14節。年老いたアブラハムへの主の言葉です。
わたしは主の御名によって告げます。
その日が来れば、
あなたのその悲しみの涙は、
必ず、喜びの歌に変えられます。
【小さな祈り】
主よ、
この悲しみの涙だけは、
決して、喜びに変えらえることはない、と思ってしまうのです。
あの日、年老いたサラが冷たく笑ったように。
あの日、おとめマリアが「どうしてそのようなことがありえましょうか」と叫んだように。
しかし主よ、あなたはそれよりも大きな声で、
サラとアブラハムに、
おとめマリアに、おっしゃいました。
神に出来ないことは、何一つない、と。
主よ今、私にも聞かせてください。
「主に不可能なことがあろうか。」
私の不信仰を覆い尽くす御声を聞かせてください。
ほんとうにこの涙が歌に変えられるのなら、
わたしは、喉から手がでるほど、
ほんとうは信じたいのです。
ーつづけてあなたの言葉で、素直に祈ってくださいー
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アーメン
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