【聖句】
「わたしにできると信じるのか。」
(新約聖書・マタイによる福音書9章28節)
【黙想】
以前仕えていた教会で
会堂と牧師館を建築するという
話が出始めたとき、
わたしは内心尻込みし、
恐れや不安から
祈ること以上に
いろいろな「計算」をしはじめて
いたことがありました。
人数、資金、時間、
様々なやりくり。
電卓をはじくように
頭の中でぐるぐると。
しかし人間的な計算を
いくらうまくやっても、
当然、計算が合わない。
というか、どう考えても
現状から考えたら無理。
自分たちの現状と、
向かうべき光景の
圧倒的な隔たりの前に、
途方に暮れるような思いに
満たされました。
そんな時、主なる神様は、
あまり多くをお語りにはならないで、
事あるごとに、わたしに
一つのことを問われました。
わたしは事あるごとに、
この御言葉の前に立たされたのです。
「わたしにできると信じるのか。」
そしてわたしは、
あたふたしながらも
信仰に引き戻されて
いつもこう答えるのです。
「はい。わたしにはできませんが、
あなたにはおできになります。」
兄弟姉妹。
私たちが問われているのは、
私たち自身にできるかできないか、
ではないのです。
自分が持っている富や力、
健康や気力、
そういうもので「できるだろうか」と
計算することではないのです。
主が常に確認したいのは、
「わたしにできると信じるのか。」
という一点です。
あなたには今、
問題があるかもしれない、
試練や乗り越えねばならない
壁や、越えねばならぬ谷が
あるかもしれない。
そしてあなた自身の力では
それを越えられそうにないと
思っているかもしれない。
では問いましょう。
その壁を、その荒れ野を、谷を、
神様なら越えさせてくださると、
神さまならお出来になると、
あなたは信じますか。
それともその壁は、
神様より高く大きいのでしょうか。
極端に聞こえるかもしれません。
でもたぶん、
そういうことなのです。
シンプルなことなのです。
私たちは悩み苦しむと、
神様をミニチュアのぬいぐるみみたいに
してしまう傾向があります。
だからシンプルな真理に帰る。
イスラエルの民が礼拝で、
「わたしたちの助けは
天地を造られた主の御名にある。」
(詩編124:8)
と告白するのもきっと、
顔をあげて、神様の大きさを
再確認するためだったのだろうと
思うのです。
さあ、あなたも顔をあげよう。
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