【聖句】
主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。
(旧約聖書・詩編127編1節)
【黙想】
詩編127編の前半部分を
ご一緒に読んでみましょう。
主御自身が
建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。
主御自身が
守ってくださるのでなければ
町を守る人が
目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか
主は愛する者に
眠りをお与えになるのだから。
一生懸命、家を建てる。
町を守るために一生懸命
目を覚ましている。
朝早く起き、
夜は遅くまで起きて、
日々パンを得るために
あくせくする。
自分が、自分が。
私が、私が。
我が、我が。
自分自身が前面に出てくる。
皆さんも身に覚えがあるかと
思いますが、
こうやって
私が、私が、
自分が、自分が、
という生き方、やり方に
傾けば傾くほど、
私たちは喜びや平安、
力や希望を失っていくのです。
かつてある青年の
洗礼試問会をしたときでした。
彼はキリスト者の両親の祈りによって
洗礼の決心へと導かれ、
本当に誠実に、
忠実に、素直に
受洗準備会を行い、
満を持して洗礼試問会に臨みました。
彼はその席上で、
受洗志願に至るまでの経緯を、
よくまとめて証してくれました。
長老たちだれもが、
感謝と喜びに満ちて
彼の言葉に聞き入っていました。
しかし私は、
一つだけ気になったことがありました。
それは、彼の言葉が終始、
「私」が主語になっていたことです。
彼の言葉の8割から9割が、
「私」が主語になっている文章で
構成されていたのが、
私は気になりました。
統べて聞き終えたあと、私は、
少しいじわるかなと思いながらも、
彼にこのように問いかけました。
「今語ってくれた話を、
今度は『神様』を主語にして
語りなおすことはできますか。」
彼は一瞬、驚いたような顔をしましたが、
「分かりました。
少し待ってください」と答え、
しばらくしてから、
今度は「神様」を主語にして
受洗へ至る経緯を
語りなおしてくれました。
たとえば同じ事実であっても、
「私はクリスチャンの
両親のもとに生まれました」
というのと、
「神様は私をクリスチャンの
両親のもとに生まれさせて
くださったのです」
というのとでは、
まるで響き方が異なるのです。
「私は家を建てている」
というのと、
「主が私の家を建ててくださっている」
というのとでは、
まるで違います。
あなたは、
あなたの人生の物語を、
あなたの日々の歩みを、
「神さま」を主語にして
語りなおせますか?
あなたがもし
日記を書いていらっしゃるなら
今日の日記は
すべての文章を、
神様を主語にして書いてみるのも
よいかもしれません。
Comments