【聖句】
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、
聖書を研究している。
ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
(ヨハネによる福音書5章39節)
【黙想】
この聖句は、
・・・・
それなのに、あなたたちは、
命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
・・・・
と続きます。
聖書を研究することは良いことです。
しかし、聖書を研究することだけでは、
決して命を得ることはできません。
ある人は言いました。
・・・
韓国の教会は「祈る」教会、
台湾の教会は「歌う」教会、
日本の教会は「議論する」教会である。
・・・
百パーセントその通りではないにせよ、
なんだか反論できないというか、
「そうだなあ」と思わされるように感じます。
イエスさまはこうもおっしゃいました。
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。(マタイ7:24-)
聞くだけ、読むだけ、研究するだけで、
行わないなら、
イエスさまのもとに踏み出さないなら、
それだけでは意味がないのです。
わたしはある時から、
キリスト教信仰は絶対的に実践的なものであると信じるようになりました。
なざなら我らの神は観念の神でも文字の神でも、
偶像の神でもなく、
生きて働かれる神だから。
私たちの信仰とは、
知識を蓄えることではなく、
体験を重ねることによって成熟していきます。
神「について」100冊の本を読み、
神「について」の本を100冊書けるよりも、
神「を」語る5つの言葉のほうが優れているのです。
私たちが隣人にイエスさまのこと、
神様のことを語るとき、
なぜその言葉に力がないのでしょうか。
それは、知識だけの言葉になっているからかもしれません。
身をもって神様を体験していないからかもしれません。
学問的な神学大学では、
「体験主義はキケンだ」と注意されます。
弱い人間、確かにそのとおりだと思います。
しかし、現場に出れば
キケンだとしても、正直、そのキケンを冒してでも、
主を慕い求めねば・・との思いを深められるのです。
「・・・あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」
と主は嘆いておられます。
もっと聖霊の自由でダイナミックな導きに委ねてよいのだと思います。
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19日~23日は都合により更新をお休みさせていただきます。
再開まで今しばらくお待ちください!
ーあなたに、朗らかで爽やかな聖霊の助けを心より祈りますー
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