【聖句】
わたしを尋ね求めるならば見いだし、
心を尽くしてわたしを求めるなら、
わたしに出会うであろう、と主は言われる。
(エレミヤ書29章13節)
【黙想】
日本語には訳されていませんが、
この聖句には、
「もし、あなたが・・・するならば」という言葉が付けられています。
もしあなたが、
わたしを尋ね求めるならば見出す。
もしあなたが、
心を尽くしてわたしを求めるなら、
わたしに出会う。
裏返して言えば、
もしあなたが、主を尋ね求めず、
心を尽くして主を求めないなら、
見出すことも出会うこともできないのだ、ということです。
先日、ある他教会の信徒の方と話をしました。
彼女は若いころに教会に導かれて洗礼を受けたのですが、
その教会はあまりに律法的で厳しく、
信仰の喜びよりは、むしろ重荷ばかりを感じるような信仰生活だったそうです。
それで別の教会に通い始めたのですが、
和気あいあいと和やかな雰囲気は良かったのだけれど、
信仰がどこか曖昧でとらえどころがなく、
なんだかずっとふわふわした状態だった、というのです。
そのような中で彼女の心の中には、
飢え渇きが与えられました。
「このままで良いのだろうか」
「本当の信仰って何なんだろうか」と。
するとそんなときに、
ある友から○○教会の聖書研究祈祷会に誘われ、
導かれて出席したのだそうです。
そしてその祈祷会に出席し続けることで、
ついに信仰の飛躍を与えられたのでした。
ある人は言うでしょう。
「教会を転々とするのは良くない」と。
たしかに、あちこち教会を行き来するのはどうかと思います。
しかし私は彼女の「このままでいいんだろうか、と思っていた」という言葉の中に、
深い魂の飢え渇きと、その飢え渇きにこたえて、
良き師との出会いへと導いてくださった神様の思いとを見るような思いがします。
兄弟姉妹。
わたしは教会における「求道者」という言葉の使い方が
あまり好きではありません。
教会では受洗前の方のことを「求道者」と呼びますが、
わたしはむしろ、人は受洗してから本当の求道者になるのだと思っています。
もっともっと求めようではありませんか。
神に求めない、祈らないのは、
「神よ、私はもはや、あなたには期待していません」と言っているのと同じことです。
主があなたに、霊的な飢え渇きを与えてくださるように―。
★日曜日、月曜日は更新をお休みします★
Comments