【聖句】
天に輝くあなたの威光をたたえます
幼な子、乳飲み子の口によって。
(旧約聖書・詩編8編2節)
【黙想】
ある日の午後、
4歳の女の子が静かな幼稚園の職員室にやってきました。
「ちょっと、お祈りさせてもらってもいいでしょうか」
というのです(この子はいつもこういう丁寧なしゃべり方をする子です)。
「どうぞー」と答えると、
その子は部屋の隅にいって目を閉じ、
祈り始めました。
てんにいらっしゃるかみさま
こんにちは。
きょうも、ちいさなこどもたちをおまもりくださって
ありがとうございます。
ひとりひとりのちいさいこどもを
おおきくしてください。
・・・
このちいさなおいのりを
イエスさまのみなによって、おささげいたします。
あーめん。
途中、ちょっと聞き取れないところもあったのですが、
彼女のまっすぐな祈りの言葉に心を洗われる思いがしました。
祈りとは何かなどと
「お勉強」したことはないのです。
日ごとに、ことあるごとに、
先生たちの祈りの言葉を耳にし、
その祈りに包まれながら生きている、
ただそれだけです。
祈りは、きっと、
そうやって身に着けるのだと思います。
このような子どもたちこそ、
最良の祈りの先生だと思います。
十数年前、
駆け出し牧師だったわたしは、
一つの苦い経験をしました。
ある中年の男性が教会に見えました。
毎週礼拝に通い、夜の祈祷会にも通ってくるようになりました。
わたしはあえて、彼と祈りの「お勉強」をしませんでした。
祈祷会に毎週来ていたので、
皆の祈りを聞いているうちに
祈りとはなにかが自然と分かるようになるだろうと思ったからです。
数カ月たったころでしょうか、
頃合い良しと思ったわたしは、ある日の祈祷会で、
「○○さん、今日はお祈りしてみましょうか」と言いました。
彼はうなずき、祈りの順番になると、
おもむろに「天の神様」と祈り始めました。
「よかった!」と思ったのもつかの間。
彼の口から切々と出てくる言葉を聞きながら、
わたしは愕然としたのです。
彼の言葉は、神様に向かって呼びかける言葉ではなく、
なんと、その場に集まっている皆さんに対して自分の思いを打ち明ける言葉だったのです。
彼にとって祈りとは、
手を組み、目を閉じ、うつむいて、
「天の神様」という枕詞のあとに、
同じように目を閉じている皆さんに向かって思いを打ち明ける行為に過ぎなかったのです。
そして何を隠そう、
彼がその「祈り」を学んだのは、
わたしたちの祈祷会においてだったのです・・・!
兄弟姉妹、
わたしがどれほど愕然としたか想像いただけますか。
教会で、教会のみんなの祈りに包まれて数カ月過ごした彼は、
わたしたちの祈りを聞いて、
それが神様に呼びかける言葉だとは感じなかったということです。
それは単なる独り言か、良くても出席者への打ち明け話くらいのもの…。
ショックでした。
兄弟姉妹、
わたしたちの祈りはどんな祈りになっているでしょうか。
神様に向かう言葉になっているでしょうか。
それとも、小難しい、こぎれいな、
考え抜かれた大人らしい!?言葉ばかりで、
無意識のうちに自分の耳や周りの人の耳に向かう言葉に成り下がってはいないでしょうか。
わたしは思います。
もっと、子どもにも分かるような言葉で祈りたい。
幼子の口で祈りたい、と。
あの4歳の女の子の祈りを聞きながら、
「君みたいに、祈りたいよ、先生は」って思った。
「ねえ、先生にお祈りを、おしえて」って思った。
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