【聖句】
あなたがたのからだを、
神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物として
ささげなさい。
それこそ、あなたがたの
霊的な礼拝です。
(ローマの信徒への手紙12章1節[新改訳])
【黙想】
わたしたちはともすると、
礼拝とは
「何か良いものを受け取る行為」だと
思っているかもしれません。
もちろんそう。
礼拝は主の恵み、祝福を、
受け取る行為です。
何としてでも今日、
主の恵みを受けとるのだ!と決意し、
主に向かって諸手を差し出す。
そのような姿勢なしにする
礼拝というのは、
厳しい言葉で言えば、
時間の無駄とさえいると思います。
けれども実は、
それ以前にもっと大切なことがあります。
旧約時代、
礼拝とはまず第一に、
「主にいけにえをささげる」行為でした。
そう。
礼拝とは、
「神にわたしを献げる」行為なのです。
主日礼拝の中には「献金」があります。
これは単に
お金をささげましょう、
ということではありません。
神様に自分を捧げること、
すなわち献身の「しるし」としての
ささげものなのです。
ですから献金の後の祈りは
「神様、この捧げもの(お金)を
あなたの御用のためにお使いください」
ということではなく、ほんとうは、
「神様、あなたの御業のために
私たちをおささげします。
この供え物はそのしるしです」
のほうが霊的礼拝の祈りと言えるでしょう。
だとすれば実は、
あの説教後の「献金」こそ、
礼拝行為の中心だと言っても
過言ではないのです。
ただ、ここでパウロがいう
「礼拝」というのは、
単に日曜朝の礼拝だけではありません。
私たちキリスト者の生き方、
日常の生活、人生そのものが
主への礼拝であり、
まさにそれこそが、
まことに霊的な礼拝なのだと
いうことなのです。
【小さな祈り】
*讃美歌332番の歌詞で
祈りを捧げましょう。
主はいのちを
あたえませり、
主は血しおを
ながしませり。
その死によりてぞ
われは生きぬ、
われ何をなして
主にむくいし。
主は御父の
もとをはなれ、
わびしき世に
住みたまえり。
かくもわがために
さかえをすつ、
われは主のために、
なにをすてし。
主はゆるしと
いつくしみと
すくいをもて
くだりませり。
ゆたけきたまもの
身にぞあまる、
ただ身とたまとを
献げまつらん。
アーメン。
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