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執筆者の写真元気牧師

4月29日(土)



【聖句】


しかし、わたしたちの本国は

天にあります。


(新約聖書・フィリピの信徒への手紙3章20節)



【黙想】


牧師をしていると、

牧師たちの集いや

いろいろな研修、会議などの折に

他の牧師の「祈り」を耳にする機会が

少なくありません。


中には、

「本当にこの先生は

 主と深く交わり、

 神様と親密な関係を築いておられるな」

と感じさせられるような

祈りをされる牧師もいらっしゃいます。


その牧師の祈りの言葉そのものが、

すでにとても慰めに満ちた

ものなのです。


そのような慰め深い、

霊的な力に満ちた祈りを

幾度も体験する中で私は、

それらの祈りに共通するものが

いくつかあることに

気づかされました。


そのうちの一つ。


そのような慰めと力に満ちた祈りは、

必ずと言っていいくらい、

「終末論的な祈り」なのです。


なにやらコムズカシイ言葉、って

思われたかもしれませんが、

単純なことです。


要するに、

私たちが向かっていく先、

私たちが目指すべき目的地を

指し示すような祈りだということです。


ともすれば私たちの祈りは、

今ここ、目の前の痛みや苦しみを嘆き、

今必要な助けや恵みを求めることに

終始しがちです。


もちろんそれでも良いのです。


けれどももっと良いこと、

それは、

終わりの時から、

今を見つめ直すことです。


たとえば仮に、

この春、第一志望校に合格して

進学した若者がいるとしましょう。


彼は今、あこがれの大学で

キャンパスライフを謳歌しています。


そんな彼にとっては、

散々な結果だった2年前の模試も、

泣きながら図書館に通っていた1年前の春も、

すべてはこの時のためであったのだと

心から確信できるはずです。


私たちも同じです。

忘れてはいけません。

私たちの本国は天にあります。

私たちは主イエスと

顔と顔とを合わせて相まみえ、

すべての労苦を解かれて

永遠の安息と喜びに入る日を

約束されているのです。


その終わりの日の

安息と喜びへと、

私たちは向かっています。

今日も。















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