【聖句】
「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」
(ルカによる福音書19章46節)
【黙想】
近頃、この主の御言葉がとても心にかかっています。
ごめんなさい、率直に言います。
祈れない、祈らない、キリスト者がとても多いのではないかと危惧しているのです。
こんなことを言うと、
「お前はどうなんだ」と言われそうですね。
わたしも、当然、
非の打ちどころのないような祈りの生活ができているわけではありません。
「わたしはちゃんとできている」なんて胸を張ることは、
ぜーんぜん、できません。
でも、このように言うことはできます。
祈ることなしに信仰生活ができる、とは到底思えない。
祈らなくてもクリスチャンでいられる、などとは考えられない。
祈ることなしでは、牧師として立っていくことは絶対無理!って。
ある牧師はこう言いました。
率直にいって、自分の10回の説教よりも、
教会員が心を合わせて真剣に10分祈ることの方が、
より祝福に満ちた結果を引き寄せることができる、と。
無論、この言葉には前後の文脈があります。
決して、御言葉の解き明かしである説教を軽視しているのではありません。
この点に十分留意することは必要ですが、
正直、わたしも彼の言葉に同意します。
主は「わたしの家は、説教の家と呼ばれる」とはおっしゃいませんでした。
「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と言われたのです。
説教も、聖礼典も、教会のすべての業も、
祈りなくして何になりましょうか。
こんなこと言ったら「説教と聖礼典を軽んじている!」
「祈りばかり強調するのは熱狂主義的だ!」と言われるでしょう。
たしかに、祈り!祈り!というのは、
人間中心に傾いていく危険もあると思います。
そんなことは重々承知なのです。
それでもなお、まったく祈りを失った教会であるよりは、
「あの教会はあまりにも祈りすぎだ!」って批判されるほうが
よっぽど良いではありませんか。
なぜなら、主は、
「わたしの家は、祈りの家でなければならない」とおっしゃっているのですから。
『祈らないことは最大の損失』という興味深い本があります。
その冒頭の言葉を引用します。
クリスチャンの生活に祈りは欠かせないものです。よく、クリスチャンの中に、「私は何もできませんので、とにかくお祈りさせていただきます」という言い方をする人がいます。この言い方は厳密に言えば、あやまった言い方ではないでしょうか。祈りこそが、クリスチャンのできる最大の事業です。祈りこそが、クリスチャンの持つことのできる最大の武器です。さっきのような言い方は、「私には小銃もピストルも機関銃もありません。しかし、ミサイルなら持っています」と言っているようなもので、信仰生活のバランスが崩れていることを証明しているようにも思えます。皆さん、祈らないことは、クリスチャンの生活にとって最大の損失であることを、ふたたび確認しようではありませんか。
わたしがサタンなら、
何を差し置いてもまずまっさきに、
キリスト者から「祈り」を奪うでしょう。
そのために全勢力を注ぎ込むでしょう。
なぜなら「祈り」さえ奪い取ることに成功すれば、
あとは時間の問題だからです。
土から引っこ抜かれた花と同じなのです。
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