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執筆者の写真元気牧師

3月3日(日)



【聖句】


さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。

あなたがたはいと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。


(新約聖書・ルカによる福音書24章49節)新改訳



【黙想】


いと高き所から力を着せられる―。


申し上げるまでもなく、これは聖霊に満たされることを表しています。

聖霊を受け、その力をまとうまでは、

あなたがたは都に留まっているがよい。


「聖霊の助けなしには、出ていくな」という命令です。


あらためて、私はこの約束を思い巡らしたいと思います。


ある伝道者がこう言っていました。

私の仕事は、とにかく「聖霊を邪魔しないこと」だ、と。

自分が事を起こすのではない。

聖霊が事を起こしてくださる。

だから、聖霊の邪魔をしないこと・・・。



わたしは今まで、

失敗に終わったと思っていた自分の説教がある人を救いに導いたという経験をしました。

「何もできなかった」と無力感に打ちひしがれながら帰路についたその日の訪問によって相手の人が主に触れられ、立ち直らされる、という経験をしました。


やっぱり、事を起こすのは聖霊なのです。



正直、使徒言行録のペトロの説教やパウロの弁明を文字で読む限り、

これらの説教や弁明の言葉によって多くの人々、

それこそ3000人もの人々が一挙に救われるなどということが起こるとは思えません。


洗練され、訓練された、もっと立派な説教ができる人は探せばいくらでもいるのではないかと思います。


それでもなお、彼らの素朴な、飾らない言葉は、

なぜかくも多くの人々を主のもとに導くことができたのでしょうか。


答えは一つです。

聖霊の力が働いたからでしょう。



何を語るかは大事でしょう。

どう語るかも大切ですし、

誰が語るのかと言うことも重要でしょう。


けれども一番大切なことは、

聖霊が伴い、聖霊の力が働くかどうかです。



わたしは、聖霊なる神様がおられる限り、

失敗と挫折ばかり重ねながらも、

なおも講壇に立ちたいと思います。


そして、そのたびに、

性懲りもなく、

まるでこれまで説教するたびにいつも10人、20人と救われてきたかのように、

常に100人、200人の信仰を覚醒させてきたかのように、

主に期待して、語り出したいと思います。


そういう意味では、

牧師は、頭が良くて優秀な人、には務まらないのではないか、

なんて思ったりします。



さ、力を捨てよう。

聖霊を着させていただくために。





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