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執筆者の写真元気牧師

3月29日(水)




【聖句】


わたしたちが正しいからではなく、

あなたの深い憐れみのゆえに、

伏して嘆願の祈りをささげます。

主よ、聞いてください。


(旧約聖書・ダニエル書9章18-19節)



【黙想】


イスラエルの民の犯した数々の罪。

その罪深さは、

私たちの想像を絶するほどでした。


たとえば、

エルサレムの神殿に

異教の偶像の神々を置き、

それらに向かってひれ伏す

などということが平然と行われ、

十戒のすべての戒めが公然と

破られているような状況が

あったのです。


そのため主なる神は

ご自分の民をバビロンの手に渡され

神の民は異国の地で

70年の間辛酸を嘗めることとなったのです。


この苦しみの時が

満ちようとしていた頃、

その約束の時が近づいていることに

気づかされたのがダニエルでした。


彼は約束の時が迫っているのに

自分たちの霊的備えが

まったくできていないことに

愕然としました。


そして大いなる悲しみと

焦りと心の痛みをおぼえつつ

民を背負って必死に

悔い改めの祈りをはじめたのです。


そんなダニエルの祈りの言葉が

ダニエル書9章に

記されているのですが、

その中で一番印象的な言葉が、

18節以下にあります。


彼は祈りの結びで

次のように叫びました。


 神よ、

 耳を傾けて聞いてください。

 目を開いて、

 わたしたちの荒廃と、

 御名をもって呼ばれる

 都の荒廃とを御覧ください。

 わたしたちが

 正しいからではなく、

 あなたの深い憐れみのゆえに、

 伏して嘆願の祈りを

 ささげます。

 主よ、聞いてください。

 主よ、お赦しください。

 主よ、耳を傾けて、

 お計らいください。

 わたしの神よ、

 御自身のために、

 救いを遅らせないでください。

 あなたの都、

 あなたの民は、

 御名をもって

 呼ばれているのですから。

 


私たちが正しいからではなく、

あなたの深い憐みのゆえに、

わたしはこうして祈るです、と

ダニエルは言いました。


兄弟姉妹。

私たちは祈る時、実は、

「自分自身の正しさ」をあてにして

祈ることが多いのではないでしょうか?


主イエスが語られた

祈りについてのたとえの中で、

ファリサイ派の人は

心の中でこう祈っていました。


 神様、

 わたしはほかの人たちのように、

 奪い取る者、

 不正な者、

 姦通を犯す者でなく、

 また、この徴税人のような

 者でもないことを感謝します。

 わたしは週に二度断食し、

 全収入の十分の一を献げています。


わたしたちはこんなふうには

祈らないと思います。


でも心の奥底に、

こんなふうに自分の正しさに

頼っていないでしょうか。


ある日は意気揚々と祈れたけれど

別の日はなんだか神様に

会わせる顔がない。


そんなことはありませんか。


兄弟姉妹。

わたしたちはもう一度、

祈りのたびに

「イエス・キリストの

 御名によって祈ります」と

申し上げる意味を

しっかりと捉える必要があります。


自分の義には

これっぽっちも頼っては

なりません。


100パーセント、

神の深い憐みの表れである

イエス・キリストの義だけに

頼って、祈ってください。


罪を犯してしまったからといって

祈ることを見送ってしまわないでください。



それでももし、

感情的に「祈りづらい」と感じるなら、

いつもは祈りの結びにいう言葉を、

祈りの一番最初に宣言してみてください。



天の父なる神様。

私は今から、

自分自身の義ではなく、

主イエスの義だけを頼りにし、

主イエス・キリストの御名によって、

祈ります。

主よ、聞いてください。

・・・と。









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