【聖句】
わたしたちはみな、顔おおいなしに、
主の栄光を鏡に映すように見つつ、
栄光から栄光へと、
主と同じ姿に変えられていく。
これは霊なる主の働きによるのである。
(新約聖書・コリントの信徒への手紙二3章17,18節)口語訳
【黙想】
いま、水曜日の聖書研究祈祷会では
テサロニケの信徒への手紙一を読み進めております。
昨日は第4章に入りました。
そして、とっても明確な言葉に出会いました。
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実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。(4:3)
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聖なる者となること。聖くなること。
難しい、無理だ、と言いたくなるかもしれません。
でも、私たちが「聖なる者」となるのは、
自分の精進努力によってではなく、
私たちの内にいます聖霊の力によります。
ですから「頑張ろう」と肩肘張るのではなく、
主の御心に期待してワクワクする、くらいがちょうどいいのではないかと思います。
とかく私たちは、
信仰生活、頑張り過ぎなんです。
頑張っちゃいけないんです。
あなたが頑張ると、聖霊が動けなくなる。
聖霊がのびのびと動けるように、
あなたは自分を明け渡してください。
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以前、山田教会においでくださった
教団隠退教師の堀江明夫先生のブログに
興味深い記事が載っていました。
以下はその引用です。
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いつの頃だったのかは思い出せませんが、心に一つの疑問が宿りました。私が牧会した教会では、礼拝の司会を長老がしていました。礼拝の中で司会者が祈ります。その祈りを聞いていると、キリスト者は罪の奴隷ではないかと思わされたのです。
つまり礼拝の中で、一週の歩みを振り返り罪を犯しましたが、罪赦され、今神の御前に出ることができ感謝しますという祈りを繰り返し聞きました。私が牧会した別の教会でも同様でした。つまり、キリスト者の歩みが、罪を犯す、そして赦される、また罪を犯す、そして赦されるという循環の中にある、それは罪の奴隷ではないか、という思いを深くしました。
キリスト者の歩みには成長があり、出発点は義とされることにあります。やがて罪に打ち勝ち、罪から清められるという聖化があり、キリスト者は聖なる者とされていきます。さらには、キリストに似た者とされていくという栄化があると聖書から教えられます。罪の支配から自由になっていく信仰者としての成長があるわけです。
なぜ、罪の奴隷状態の中にいるような信仰生活が続くのか、疑問に思っていました。やがて次のように考えるようになりました。
プロテスタントの出発点となった宗教改革者のマルチン・ルターは、信仰によって義とされるという福音を発見したことで知られています。彼は修道士となり、神の前で教えに従う誠実な歩みを実践しましたが、自分の罪を責め続けました。完璧に神の教えに従うことができていないと思ったからです。しかし信仰によって義とされることが福音であると知り、その苦しさから解放され、喜びをもって信仰の歩みを始めました。
キリストを信じる者は義とされる、基本的な教えです。でも疑問が生じます。罪を犯したらどうなるの?罪を犯したら義とされるたことが取り消されるのか。それとも罪を犯してもなお義とされているのか。罪を犯してもなお義とされるなら、安心して罪を犯すことができるという思いさえ生じます。
そこでキリストを信じることによって義とされることを語ることはせず、キリストの十字架の贖いのおかげで私たちは罪を犯しても赦されます、これが福音です、と説教されるようになったのではないかと推測します。こうすれば、罪を犯したら義とされることはどうなのか、という問題を避けることができます。
こうして福音は罪の赦しの福音である、という狭い福音理解が生まれたのではないかと私は考えるようになりました。
教会の礼拝に始めてきた人が、礼拝に続けて出席するようになると、「私は罪を犯しましたが赦されて感謝です」という祈りを毎週聞きます。果たしてこの人は、キリスト者になりたいと願うでしょうか。
罪に打ち勝つ喜びや感謝、少しでもキリストに似た者へと変えられる喜び、これらが祈られないなら、伝道はむずかしいと私は考えます。そして伝道が振るわない原因の一つに、福音を狭く理解していることがあるのではないかと考えます。
それゆえ、礼拝において福音が余すところなく宣べ伝えられるようにと私は祈っています。
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