【聖句】
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、
唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。
(新約聖書・ヨハネによる福音書9章6,7節)
【黙想】
4日(日)の礼拝説教では、語りつくせぬことがたくさんありました。
神殿のそばで座って物乞いをしていた生まれつき目の見えない人。
そんな彼に目を留め、お癒しになられたイエスさま。
私達はイエスさまの言葉だけではなく、
イエスさまの「行動」にも心を傾けるべきです。
イエスさまがこのときお選びになった癒しの方法は、
だいぶ変わったものでした。
土に唾を混ぜて泥を造り、
それを盲人の目に塗った、というのです。
コロナ禍の世間であれば完全御法度ですよね。
お世辞にもキレイな話ではありません。
そもそもイエスさまは、
お言葉一つで遠隔地にいる人をすら癒すことがお出来になる方ですよね。
実際に福音書の中にはそのうような例がいくつかあります。
目の前の人に手を置いたり、
「癒された!」と宣言するだけでも癒しはお出来になったはずです。
ではなぜ、イエスさまはこのとき、
このような方法をお選びになったのでしょうか?
それは、この人の信仰を引き出し、
信仰を励ますためであったに違いありません。
生まれてこの方、目が見えない人。
皆から「誰の罪でこうなったのか」と後ろ指差され続けた人生。
そんな彼が「あなたに神の業が現れる」という御言葉を信じるためには、
並大抵ではない励ましが必要であることは明らかです。
イエスさまは、まるで陶工が粘土をこねるようにして泥を造り、
創造主が土の塵で人を作った時のように彼の目に泥を塗りましたが、
語りかけた言葉は「シロアムに行って洗いなさい」という単純なものでした。
泥がついた。だから洗う。
当たり前のこと。
この当たり前のこと、
誰にでもできることを、
しかし主イエスの御言葉を信じて行う。
たしかに、シロアムの池までの約1キロの道のりは、
目の見えない彼にとってはヒョイと行ける距離ではありません。
しかし、不可能な距離ではないのです。
当たり前のこと、彼にもできることを、
御言葉に従って行うということ・・・。
主イエスが彼にしたことと、彼に命じたことは、
本当に絶妙に、彼の信仰を引き出すために適切なことだったのだと、
私は驚嘆します。
思えば、イエスさまの癒しの御業は、
いつもワンパターン、というものではありませんでした。
その場で癒したり、
癒されていないうちから「信じて帰りなさい」とチャレンジしてこられたり、
聞こえない耳に指を入れ、
回らない舌に指で触れらたり、
手を取って起こしたかと思えば、
「立ちなさい」とお命じになるだけだったり。
いつもいつも、目の前の人の状況や心持ちに寄り添って、
一人一人にぴったり合う方法をおとりになるのです。
兄弟姉妹。
主は、あなたにも、あなたにぴったりの方法で向き合ってくださいます。
だから、
「なぜ、あの人みたいにしてくれないの?」
「どうして、あの時みたいにしてくれないの?」とつぶやかないで。
すべてをご存じのイエス様にお任せしましょう。
何も心配することはありません。
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