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  • 執筆者の写真元気牧師

2月14日(水)



【聖句】


キリストは、神の身分でありながら、

神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

かえって自分を無にして、僕の身分になり、

人間と同じ者になられました。

人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、

それも十字架の死に至るまで従順でした。


(新約聖書・フィリピの信徒への手紙2章6~8節)



【黙想】


わたしの母教会は、

牧師が夏期休暇中の日曜日の礼拝は

「信徒奨励日」と銘打って、

牧師の説教ではなく、

役員や教会員が自分自身の信仰の証を交えていわゆる「奨励」を語る礼拝を守っていました。


そのようなスタイルの是非は脇においといて。


ある年の信徒奨励日の礼拝で、

わたしの父が講壇に立ったのです。


講壇に立った父の姿は(見ていたはずですが)まったく覚えていません。

無論、話の内容もまるで覚えていません。


しかし、その日の奨励の題だけは、

今でも覚えています。

次のような題でした。


「階段を下りていく生き方」




当時の私は、

中学だったか高校だったか、

とにかくサッカー部では一つでも上へ、

勉強でも偏差値を上げること、

レベルの高い高校、大学を目指すこと、

より高く、より上へ、という言葉が飛び交う世界に生きていました。


そのような中にあって、

「階段を下りていく生き方」というのは

私にとっては極めてセンセーショナルな言葉だったのです。



下りていく、という生き方は

明らかにイエスさまの御姿そのものだと思います。


イエスさまにならい、

イエスさまのように生きていく。


それがクリスチャン・ライフであるならば、

私達の生き方は、どこかに上り詰めていくというものではなく、

やはりどこかしら、何かしら、

必然的に「下りていく生き方」になるのだろうと思います。


ただ、この「下りていく生き方」は、

下りていくことそのものが目的なのではありません。


今日の聖句の続きを読んでみましょう。


・・・・

このため、神はキリストを高く上げ、

あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

こうして、天上のもの、地上のもの、

地下のものがすべて、

イエスの御名にひざまずき、

すべての舌が、

「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、

父である神をたたえるのです。

・・・・


下りていく生き方。

それは、自分で自分を引き上げようとする生き方ではなく、

神に引き上げていく生き方なのです。



下りていくほどに、

神が引き上げてくださる。


思い出す詩があります。

星野富弘さんの詩です。



・・・・


じゃがいもの花


泥だらけになって

じゃがいもを

掘っていた時ふと見上げた空が

手で触れそうなほど近かったことを

憶えている

高い所にあこがれ

山の頂に

立った時

なんにもない空が

果てしなく遠かったことを

憶えている










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