【聖句】
マリアは言った。
「わたしは主のはしためです。
お言葉どおり、この身に成りますように。」
(新約聖書・ルカによる福音書1章38節)
【黙想】
キリスト者にとっては言わずと知れたマリアの言葉。
このシンプルな言葉に、
信仰とは何であるか、あらためて気づかされる思いがします。
マリアはこの時、
神のために、神の御業のために「この身」を捧げたのです。
自分自身の胎を捧げた。肉体をささげた。
どうぞ、私の体をお使いください。
どうぞ、あなたの御言葉のとおり、
この体をあなたを御業のために用いてください。
あらためて思います。
信仰とは、思想的、精神的なもの、だけではありません。
信仰には体が伴うのです。
信仰は、体で味わわせていただく部分も多分にあるのです。
ある人は言いました。
「日本の教会は、議論する教会だ」
「日本の教会は、考える教会だ」と。
もちろん議論すること、考えることも大切ですし、
日本の教会をこのように一刀両断することが正かどうかは
まさにギロンの余地があるでしょう。
しかし、確かに日本の教会のある側面を言い当てている指摘であるように思います。
あれこれ御言葉の解釈ばかりが飛び交っているけれど、
御言葉どおりに生きるという「実践」があまりにも貧しい気がします。
御言葉は頭だけでは理解できません。
聞き従うという実践の中で「主の言葉は真実である」と、
「ああこの約束はこういうことなんだ」と悟らせていただく面が
とても多いように思います。
こんなことをあまり言いすぎると、
人間の側の体験ばかりを強調する経験主義はキケン!と言われるでしょう。
はい、重々承知です。
でも私は、ある意味では、そういうキケンを冒してでも
生ける神に触れる、神の御業をこの目で目撃する、ということの力強さを
やっぱりどうしても強調したい。
ペトロは、「主はわたしに水の上を歩かせることができる」ということを
黒板の文字で学んだのではなく、
実際に水の上に足を踏み出すことで知りました。
モーセは、「神は海を分けることができる」ということを、
オンラインの授業で勉強したのではありません。
実際に危機に際して、
海に向かって手をあげ、実際にその水の間を歩くことを通して知りました。
このような例は、聖書中、枚挙に暇がありません。
あれこれ聖句の解釈が飛び交うのはいいですが、
ともすると、聞き従わないための言い訳を考えだそうとしているように思えてきます。
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