【聖句】
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。
(新約聖書・コリントの信徒への手紙二12章9節)
【黙想】
わたしがしばしば、
自然の中に退いて一人になったときに開く本があります。
神様に立ち返るため、静まるため、
何冊かそのような類の本を抱えていくのですが、
そのうちの一冊に、
『若い牧師・教会リーダーのための14章』という本があります。
邦題だとなんだか趣のない題名に聞こえますが、
英語の原題はこうです。
"If I Were Starting My Ministry Again"
直訳すれば、
「もしわたしがもう一度、牧会をやり直すことができるなら」。
老練の牧師が、若い牧師たちに向かって、
自分が牧師をやり直せるなら、こうしたい。きっとこうする。
そんな思いを、悟りを、分かち合ってくれる書物で、
わたしはこの本を、牧会に出る直前に、
夏期伝道でお世話になった牧師からいただいたのです。
とても小さな本ですが、
私を原点に引き戻してくれる言葉にあふれています。
いろいろと印象深い言葉、時折思い出す言葉がありますが、
たとえば、
「私自身学んできたことだが、神が用いられるのは、これは自分のベストだと私が思った説教ではない。これはだめだ、これは失敗だと思うような説教や奉仕を神は用い、祝福してくださることがしばしばであった・・・」というような言葉。
礼拝後に、うなだれて牧師館に逃げ帰りたいような思いになっているときに
この言葉を思い出すことがあります。
この言葉が記されているのと同じ章には、
次のような言葉も書かれています。
「主の力は、わたしの弱さのうちに現れる」とあるが、私たちはあまりに強くて、神が私たちをお用いになることができないのではないだろうか。私たちが霊的なわざや永続的な働きを自分自身でできると思っている間は、主は、私たちのなすがままにしておかれるであろう。しかし、その結果は、人間的なものでしかない。・・・中略・・・人間の自我から出た言動は、霊的な働きに関する限り、用いられず、全く役に立たない。こうしたことを私たちは信じなければならないのである。神が私たちに求めておられるのは、成功ではなく、誠実さである。
牧師としての歩みを少しずつ積み重ねていけば、
少しずつ楽になると思っていました。
しかし現実は、むしろ逆で、
いつも不可能を担い、常に行き詰まり、より途方に暮れつつある、というのが今のところの印象です。
でも、だからこそ、祈るようにされる。祈らずには歩めないことが分かる。
そして、祈りに答えてくださる主に出会い、
より主を信頼する道へと導かれていく、
これは確かだと思います。
主の力は、弱さの中にこそ、現わされる。
きっと牧師の生活、あるいはキリスト者の信仰生活の神髄は、
ここにあるのだと思います。
同じ第2コリント4章にあるパウロの言葉を思い出します。
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
アーメンです。
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