【聖句】
口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。
(新約聖書・ローマの信徒への手紙10章9節)
【黙想】
昨日の礼拝の折、ある方からこう聞かれました。
「この教会の洗礼は、『滴礼』なんですか?」
「滴礼」というのは、洗礼式の折に、
牧師が手に水を救い、その水を頭に滴らせるようにして洗礼を授ける形式のことです。
これに対して「全浸礼」というのもあります。
これは読んで字のごとく、体のすべてを水に沈める方法です。
また、少し細かいことを言えば、
「灌水礼」というのもあります。
手や容器などを用いて、頭に水を注ぎかける方法です。
それぞれのカタチにはそれぞれの意味があり、
祈りがあり、生み出された文脈があります。
そして、それぞれのカタチに込められたものを、
私たちは重んじ、敬意を払って受け止めるべきであると思います。
とりわけ「全浸礼」を行う教派の方々が、
どのような思いでこの形の洗礼式にこだわりをもっているのかということも、
私たちは謙遜に耳を傾けるべきだと感じています。
けれども、たとえば、
「〇〇の方法でなければ正式な洗礼とは認めない」というふうに思ってしまうなら、
それは違うと思うのです。
終わりの日の裁きの座で、
主は私たちに何をお尋ねになるのでしょうか。
「あなたは教会でどんな洗礼式を受けたのか?」などとお尋ねになるでしょうか?
「わたしは〇〇という形で洗礼を受けました」と私たちが言ったとして、
「その方法は正式じゃないから認めない」などと主はおっしゃるでしょうか。
主がお尋ねになるのは、一つです。
「あなたは、わたしを、信じているか?」
カタチは、信仰を整え、支えることには役立ちます。
決してなおざりにしてはなりません。
しかしカタチにこだわりすぎることは、信仰を窒息させます。
主は秩序の神ですが、
同時に聖霊は「自由の霊」なのです。
イエスさまを信じて生きる。
それは規則や戒律ずくめの「シュウキョウ」ではありません。
もっと自由なこと、自由にされることなのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。
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