
【聖句】
教会はキリストの体であり、
すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
(新約聖書・エフェソの信徒への手紙1章23節)
【黙想】
以前どなたかが、
「神様はね、私たちが住むこの全世界すべてをお造りになった方なんですよ!」って、仰っていて、わたしは「その通り!」と思いながら、でも「それ以上!」って思いました。
全世界、っていうのが、
この地球や、この地球の周りの太陽系!?程度のことをイメージしているとすれば、
それは小さすぎるでしょう!?
私たちはよく、「神は全世界、この世界のすべてを造られた」と言いますが、
わたしは「全世界」よりも「全宇宙」のほうが良いのではないかと感じています。
これと同じようなことが、
「イエスさま」というお方に対する理解にも言えるのではないかと思います。
私たちはイエスさまを、
「教会の頭、私たちの主、私たちの王」として理解し、信じています。
大正解です。
けれどももし私たちがイエス様を、
言葉は悪いですが「その程度のお方」としてしか理解していなければ、
それは是が非でも改めねばなりません。
次の聖書の言葉を一言一句しっかりと読んでください。
神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
エフェソ1:20-22
もう一か所、コロサイの信徒への手紙から。
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。
コロサイ1:15-18
教会に、その頭として与えられているイエスさまが、
どれほどのお方であるか。
私たちのために死んでくださった方が、
どれほどのお方であるか。
この理解が、信仰が、
教会の理解、私たちキリスト者というものの理解を塗り替え、押し広げていくのです。
だから、父なる神様の大きさだけでなく、
子なる神イエス・キリストの大きさも、しっかりと。
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