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執筆者の写真元気牧師

11月17日(金)



【聖句】


わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、

イエスの命がこの体に現れるために。

わたしたちは生きている間、

絶えずイエスのために死にさらされています、

死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。


(新約聖書・コリントの信徒への手紙二4章10,11節)



【黙想】


武士道を説く、侍のバイブルのような書物『葉隠』の中の一節、

「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という言葉はよく知られていると思います。


しかし、この一節から始まる文章を読んだことはありますか?

それは次のような文章なのです。

文語体ではなく口語体で記しますので、ぜひゆっくりと読んでみてください。




武士道とは、死ぬ事であると悟った。人生には二者択一を迫られる時がある。そういうときは早く死ぬほうを選べばよい。何も悩む必要はない。細かな事は気にせず、腹をくくって進めばよい。思惑が外れて、手柄を立てずに死んだら犬死になどと考えるのは、上方風の気取った武士道だ。

二つに一つを選ぶというときに、いつも正しいほうを選ぶということは、人知の及ばざるところである。私も人も、生か死かでは生きるほうが好きだ。二者択一が生か死かであれば、多分、好きな生のほうを何かしら理屈をつけて選ぶだろう。だが、もしその判断が間違いだったとき、それでもなお、生きることばかりにしがみついていれば腰抜け扱いされる。ここが難しいところだ。

一方、判断や行動を間違えて死んだとしても、それは犬死に、無駄死にではあるものの恥とはならない。武道の心構えはこれで十分である。

保身か捨て身か、生か死かというときは、捨て身や死を覚悟すべきだ。毎朝、毎夕、死を覚悟して、いつでも死ぬ準備、我が身を捨てる覚悟ができていれば、我が身大事の束縛から心が解放され自由になる。心に自由を得て仕事に取り組めば、生涯落ち度なく役目を果たすことができるし、実は自分自身を生かすこともできるのである。

どのような感想を持たれますか?

もちろん、どこか肩に力の入った、力みのようなものを感じます。

すべての言葉に頷けるわけではありません。


ですが、私は素直に感動しました。

正直、信仰の通じるものがあると思いました。

これがもし使徒パウロの言葉だと言われても、なるほど、と思えます。


イエスさまも次のようにおっしゃいましたね。


わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。(マタイ16:24,25)

生きたいと思う心はとても大切なもので、私たちには欠かせないものです。

しかしその思いが高じて我が身大事の束縛に支配されてしまうとすれば、

その縄目は大変強烈なものとなるでしょう。


本当の自由は、本当の命への道は、

死ぬこと、それも「キリストの命にあずかるために、自らに死ぬこと」にある。


キリスト道を生きたパウロと、武士道を極めた侍とが対談したら、

どんな言葉が出てくるか―想像するだけでもわくわくします。









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