【聖書】
もし信じるなら、
神の栄光が見られると、
言っておいたではないか。
(新約聖書・ヨハネ福音書11章40節)
【黙想】
兄弟ラザロが重い病で死の床にあった。
姉妹であるマルタとマリアは主イエスに助けを乞い、
「急いで来てください」と願い出た。
しかし主イエスが到着する前にラザロは息絶え、
墓に葬られてしまったのです。
ラザロの埋葬から四日後。
主イエスが到着し、
「わたしは復活であり祈りである」と宣言して、
墓の前で「その石を取りのけなさい(墓を開きなさい)」とおっしゃいました。
すぐさまマルタは叫びました。
「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。
そう。
ここに、人間の側からは越えられない境界線があります。
ラザロの墓の前だけではなく、
私たち人間には、どうしても、
これ以上先に進めないと思う境界線があります。
というか、境界線を引いているのです。私たちは。
そこに境界線を引く理由は、正当なものです。
マルタは言いました。
「主よ、もう四日も経っています。」
わたしたちも言うでしょう。
「主よ、もうこんな歳です。」
「主よ、もうこれしかありません。」
「主よ、もう手の施しようがないと言われたのです。」
どれも正当な理由なのです。
しかし主イエスは、その私たちの側の理由を受けとめつつも、
それゆえ共に涙を流しつつも(11:33-35)、
いっそうまなじりを決して、こうおっしゃるのです。
もし信じるなら、神の栄光が見られる。
信仰は、自分で引いた、自分の境界線の向こうに踏み出すことです。
美しい景色を見るために、
人は山を登り、
川を越え、
国境を越えてその向こうに身を乗り出します。
神の栄光を見るために、
私たちは、自分で引いた、
人間的にはとても理にかなった一線を、
信仰によって越えていくのです。
その時必要なのは、
能力や腕力、財力や権力ではありません。
むしろそれらの人間的なチカラをそっとしまって、
幼子のようになること。
疑いながらでもいいんです。
不安が消え去っていなくたってかまいません。
それでもなお、石を取りのけるのです。
信仰の世界、向こう側へのドアを開ける鍵は、
「従順」という名の鍵です。
マルタは、石を取りのけました。
震える手で。疑いや恐れを抱えながら。
でも、従順に、言われたとおりに。
そして、彼女は、兄弟ラザロと再び相まみえました。
【小さな祈り】
天の父よ。
あなたの栄光を見たいです。
「神の栄光が見られる」。
なんとすばらしい言葉でしょう。
「もし信じるなら」とあなたはおっしゃいました。
それ以外の条件を、あなたはおっしゃいませんでした。
もし信じるなら、神の栄光が見られる。
どうか主よ、信じさせてください。
疑い、迷い、不安、恐れ、
わたしの内に渦巻くれらのものが、
「もう四日も経っているではないか」と叫んでいます。
「そんなことをして何になる」と吠え猛っています。
主よ、どうか私が、
それがあなたの言葉であるという理由だけで、
あなたの御言葉に従順になることができますように。
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*あなたの言葉で祈りましょう。
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アーメン。
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