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10月8日(土)

  • 執筆者の写真: 元気牧師
    元気牧師
  • 2022年10月8日
  • 読了時間: 3分



【聖書】


もし信じるなら、

神の栄光が見られると、

言っておいたではないか。


(新約聖書・ヨハネ福音書11章40節)



【黙想】


兄弟ラザロが重い病で死の床にあった。


姉妹であるマルタとマリアは主イエスに助けを乞い、

「急いで来てください」と願い出た。


しかし主イエスが到着する前にラザロは息絶え、

墓に葬られてしまったのです。


ラザロの埋葬から四日後。

主イエスが到着し、

「わたしは復活であり祈りである」と宣言して、

墓の前で「その石を取りのけなさい(墓を開きなさい)」とおっしゃいました。


すぐさまマルタは叫びました。

「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。



そう。

ここに、人間の側からは越えられない境界線があります。


ラザロの墓の前だけではなく、

私たち人間には、どうしても、

これ以上先に進めないと思う境界線があります。

というか、境界線を引いているのです。私たちは。


そこに境界線を引く理由は、正当なものです。


マルタは言いました。

「主よ、もう四日も経っています。」


わたしたちも言うでしょう。

「主よ、もうこんな歳です。」

「主よ、もうこれしかありません。」

「主よ、もう手の施しようがないと言われたのです。」


どれも正当な理由なのです。


しかし主イエスは、その私たちの側の理由を受けとめつつも、

それゆえ共に涙を流しつつも(11:33-35)、

いっそうまなじりを決して、こうおっしゃるのです。



もし信じるなら、神の栄光が見られる。



信仰は、自分で引いた、自分の境界線の向こうに踏み出すことです。


美しい景色を見るために、

人は山を登り、

川を越え、

国境を越えてその向こうに身を乗り出します。


神の栄光を見るために、

私たちは、自分で引いた、

人間的にはとても理にかなった一線を、

信仰によって越えていくのです。


その時必要なのは、

能力や腕力、財力や権力ではありません。

むしろそれらの人間的なチカラをそっとしまって、

幼子のようになること。


疑いながらでもいいんです。

不安が消え去っていなくたってかまいません。


それでもなお、石を取りのけるのです。

信仰の世界、向こう側へのドアを開ける鍵は、

「従順」という名の鍵です。


マルタは、石を取りのけました。

震える手で。疑いや恐れを抱えながら。

でも、従順に、言われたとおりに。


そして、彼女は、兄弟ラザロと再び相まみえました。



【小さな祈り】


天の父よ。

あなたの栄光を見たいです。

「神の栄光が見られる」。

なんとすばらしい言葉でしょう。

「もし信じるなら」とあなたはおっしゃいました。

それ以外の条件を、あなたはおっしゃいませんでした。

もし信じるなら、神の栄光が見られる。

どうか主よ、信じさせてください。

疑い、迷い、不安、恐れ、

わたしの内に渦巻くれらのものが、

「もう四日も経っているではないか」と叫んでいます。

「そんなことをして何になる」と吠え猛っています。

主よ、どうか私が、

それがあなたの言葉であるという理由だけで、

あなたの御言葉に従順になることができますように。

*あなたの言葉で祈りましょう。

アーメン。



 
 
 

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