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  • 執筆者の写真元気牧師

10月17日(月)



【聖句】


わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、

イエスの命がこの体に現れるために。


(新約聖書・コリントの信徒への手紙Ⅱ4章10節)



【黙想】


昔、教会のある婦人が、

もともと体が小さく弱い上に歳を重ねた自分の体のことを、

「枯れ木のような体」だと表現していたことがありました。


人間的な目で見るなら、

痩せ細り、体力も落ち、腰は曲がって、

確かに「枯れ木」のようだとも言える状態でした。


でも彼女の祈りには、力がありました。

生気がみなぎっていました。


私が自宅や家庭を訪問し共に祈りをあわせるとき、

彼女はまるで獅子が喉を鳴らすような声で、

しかしとても穏やかな声色で、祈っていました。


その声と言葉を聞いて、

私にはすぐに分かりました。


この人は、牧師が来たときだけじゃない、

いつも祈っている人だ、と。


歳をさらに重ねて、最晩年には、

訪問して聖書の話をすると、

彼女の「感想」なのか、もう「祈り」がはじまっているのか、

その境目がもはや分からないくらい、

御言葉に応答し、御言葉の中に入り込んでいました。



腰の曲がった小さな体は、

指一本でも壊せそうなくらい弱っていましたが、

その弱さの中に、主イエスの力がみなぎっていました。

しばしば「早く主のもとに行きたい」とこぼしていた彼女。

まるで死を身にまとって生きる、その彼女に、

主イエスの命が現わされていました。



伝道宣教。迫害と妨害。

心身をすり減らしながら生きていた使徒パウロはこう言いました。


ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。

不思議な言葉ですが、わたしはいつもこの箇所を読むたびに、

枯れ木のような、しかし力と命のみなぎっていた、

あの小さな婦人の、獅子が唸るような祈りの声が思い出されるのです。



【小さな祈り】


天の父よ。

わたしのうちに、

主イエスの復活の命が満ち溢れるようにしてください。

私の弱さに主の強さが宿るように。

わたしを通して、主イエスの命が現れるように。

主よ、祈ることを教えて下さい。

あなたともっと親しく、もっとそば近くにいたいのです。

*あなたの言葉で祈りましょう。

アーメン。



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