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10月17日(月)

  • 執筆者の写真: 元気牧師
    元気牧師
  • 2022年10月17日
  • 読了時間: 2分


【聖句】


わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、

イエスの命がこの体に現れるために。


(新約聖書・コリントの信徒への手紙Ⅱ4章10節)



【黙想】


昔、教会のある婦人が、

もともと体が小さく弱い上に歳を重ねた自分の体のことを、

「枯れ木のような体」だと表現していたことがありました。


人間的な目で見るなら、

痩せ細り、体力も落ち、腰は曲がって、

確かに「枯れ木」のようだとも言える状態でした。


でも彼女の祈りには、力がありました。

生気がみなぎっていました。


私が自宅や家庭を訪問し共に祈りをあわせるとき、

彼女はまるで獅子が喉を鳴らすような声で、

しかしとても穏やかな声色で、祈っていました。


その声と言葉を聞いて、

私にはすぐに分かりました。


この人は、牧師が来たときだけじゃない、

いつも祈っている人だ、と。


歳をさらに重ねて、最晩年には、

訪問して聖書の話をすると、

彼女の「感想」なのか、もう「祈り」がはじまっているのか、

その境目がもはや分からないくらい、

御言葉に応答し、御言葉の中に入り込んでいました。



腰の曲がった小さな体は、

指一本でも壊せそうなくらい弱っていましたが、

その弱さの中に、主イエスの力がみなぎっていました。

しばしば「早く主のもとに行きたい」とこぼしていた彼女。

まるで死を身にまとって生きる、その彼女に、

主イエスの命が現わされていました。



伝道宣教。迫害と妨害。

心身をすり減らしながら生きていた使徒パウロはこう言いました。


ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。

不思議な言葉ですが、わたしはいつもこの箇所を読むたびに、

枯れ木のような、しかし力と命のみなぎっていた、

あの小さな婦人の、獅子が唸るような祈りの声が思い出されるのです。



【小さな祈り】


天の父よ。

わたしのうちに、

主イエスの復活の命が満ち溢れるようにしてください。

私の弱さに主の強さが宿るように。

わたしを通して、主イエスの命が現れるように。

主よ、祈ることを教えて下さい。

あなたともっと親しく、もっとそば近くにいたいのです。

*あなたの言葉で祈りましょう。

アーメン。



 
 
 

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