【聖句】
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、
イエスの命がこの体に現れるために。
(新約聖書・コリントの信徒への手紙Ⅱ4章10節)
【黙想】
昔、教会のある婦人が、
もともと体が小さく弱い上に歳を重ねた自分の体のことを、
「枯れ木のような体」だと表現していたことがありました。
人間的な目で見るなら、
痩せ細り、体力も落ち、腰は曲がって、
確かに「枯れ木」のようだとも言える状態でした。
でも彼女の祈りには、力がありました。
生気がみなぎっていました。
私が自宅や家庭を訪問し共に祈りをあわせるとき、
彼女はまるで獅子が喉を鳴らすような声で、
しかしとても穏やかな声色で、祈っていました。
その声と言葉を聞いて、
私にはすぐに分かりました。
この人は、牧師が来たときだけじゃない、
いつも祈っている人だ、と。
歳をさらに重ねて、最晩年には、
訪問して聖書の話をすると、
彼女の「感想」なのか、もう「祈り」がはじまっているのか、
その境目がもはや分からないくらい、
御言葉に応答し、御言葉の中に入り込んでいました。
腰の曲がった小さな体は、
指一本でも壊せそうなくらい弱っていましたが、
その弱さの中に、主イエスの力がみなぎっていました。
しばしば「早く主のもとに行きたい」とこぼしていた彼女。
まるで死を身にまとって生きる、その彼女に、
主イエスの命が現わされていました。
伝道宣教。迫害と妨害。
心身をすり減らしながら生きていた使徒パウロはこう言いました。
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
不思議な言葉ですが、わたしはいつもこの箇所を読むたびに、
枯れ木のような、しかし力と命のみなぎっていた、
あの小さな婦人の、獅子が唸るような祈りの声が思い出されるのです。
【小さな祈り】
天の父よ。
わたしのうちに、
主イエスの復活の命が満ち溢れるようにしてください。
私の弱さに主の強さが宿るように。
わたしを通して、主イエスの命が現れるように。
主よ、祈ることを教えて下さい。
あなたともっと親しく、もっとそば近くにいたいのです。
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*あなたの言葉で祈りましょう。
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アーメン。
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