top of page
  • 執筆者の写真元気牧師

10月14日(土)



【聖句】


人はうわべを見るが、主は心を見る。


(旧約聖書・サムエル記上16章7節)新改訳



【黙想】


預言者サムエルが

サウルに次ぐ王に油を注ぐため、

主によってエッサイの家に遣わされた時。


エッサイの8人の息子たちは、

順番にサムエルの前を通りました。

さながらオーディション会場です。


まずは長男のエリアブ。

その筋骨隆々な姿、背も高く堂々たる風格に、

サムエルは「この者こそ!」と即座に思いました。


しかし主は、

「違う」というのです。


そのとき主がおっしゃった言葉が、

とても印象的です。


わたしは人間が見るようには見ない、とおっしゃって、

こう言われました。


・・・・

人はうわべを見るが、主は心を見る。

・・・・


エッサイの長男、次男、三男・・・・

皆それぞれに見どころのある息子たちでしたが、

主はそれぞれを退けられ、

ついにはそこにいた7人ともが該当者なしでした。


結論から言えば、

そこにいない、年端もいかない、羊の世話をしていた少年、

末っ子のダビデを、

主はお選びになっていたのです。



この一連の場面を、子どもたちの前で、

演技たっぷりに話すと、

神様が長男エリアブを選ばなかったとき、

次男アビナダブを選ばなかったとき・・・

子どもたちは「え~~~~!!?」といって、

ずっこけます。


そして、末っ子ダビデを選んだとき、

目をまん丸くして心から驚くのです。



神様って、そういう方なんですよね。

 なんでこの人じゃないの?

 なんでこの人なの?

そういう選びをなさるのです。


 人はうわべを見るが、主は心を見る。 


私たちは、深い見方をしているつもりでも、

結局うわべしか見えていない。


あるいは、どんなに心を見ようと思っても、

うわべに引っ張られる。



でもこれって、

わたしたちの対人関係だけではなく、

私と神様の関係も同じかもしれません。



わたしたちは神様のうわべしか見ていない。

神様のうわべだけを見て、

神様の心を知った気になって、

神様をさばくことすらするでしょう?


 どうしてこうなのですか?

 どうしてこうなさらないのですか?



兄弟姉妹、

主が私たちの心をご覧になるように、

私たちも、うわべではなく主の御心を尋ね求めよう。


主はかつて、

罪深いソドムとゴモラの町をお裁きになる前、

アブラハムにこうおっしゃいました。


・・・・

主は言われた。

「わたしが行おうとしていることを

 アブラハムに隠す必要があろうか。

(創世記18:17)

・・・・


主はアブラハムに対して、

ご自分の胸の内を隠さずにお話くださいました。


神様とアブラハムの熱い信頼関係がうかがわれますよね。

私たちは神様とアブラハムの類まれなる信頼関係に思いを致すことなく

うわべだけでものごとを見るから、

主がアブラハムに「息子イサクをささげよ」とおっしゃったのを見聞きして

「神様って残酷!酷い!」って裁くのです。


聖書は言います。

アブラハムは、

 神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。

(ヘブライ11:19)


死んだも同然の自分の年老いた体から

新しい命を呼び出すことができた主は、

死から命を生み出すことすらお出来になると、

彼は葛藤しつつも、もだえ苦しみつつも、

最後に、主を信じたのです。



彼は、うわべだけで主を裁かなかった。

主の心を見、主の力を見、

主はかならず良きにしたもうとの信仰を選び取りました。















閲覧数:19回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page