【聖句】
引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。
そのときには、言うべきことは教えられる。
実は、話すのはあなたがたではなく、
あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
(新約聖書・マタイによる福音書10章19~20節)
【黙想】
これは主イエスが弟子たちに対して、
迫害を予告なさったときに言われた言葉です。
でも、この「言うべきことは教えられる」という原則は
私たちキリスト者すべてにあてはまる原則ではないかと思います。
私たちは、誰かに何かを言おうとして
あらかじめ準備する、考えておくことがあるでしょう。
あるいは誰かが話しているときに
誰かに何かの相談を受けているときに、
次に自分が何を言おうか(良かれと思って)考えていることがあるでしょう。
もちろんそれはしばしば大切なことですし、
何も考えずに話し始めたり、
話を聞いたりしているのはよろしくないでしょう。
けれども、私たちがあまりにも自分の用意したものに固執していたり、
あまりにもぐるぐると自分の頭の中で考えたりしていると、
聖霊がお働きになることができないのではないでしょうか。
聖霊はブルドーザーのように
私たちの心の中のガラクタをガガーっと一層される方ではなく、
私たちが聖霊なる神様に「余白」をささげるとき、
そこにそっと水を注いでくださるようなお方だと私は感じています。
人に何かを語ろうと思う人は、
自分が語ろうと思っていることを潔く手放す準備をする必要があります。
誰かに何かを語ろうと思う人は、
話すこと、語ること以上に、
思いのほとんどの領域を「聖霊に聞く」ということに
ささげる必要があります。
そのうえで、
平安のうちに口を開く。
語るべき言葉が頭の中になくても
口を開いて何かを語りだす。
そのとき、聖霊が語るべき言葉を私たちの舌にそっと載せてくださる。
・・・なんだかちょっと、
漠然とした話に聞こえるかもしれませんが、
わたしたちはもっともっと、
「言うべきことは教えられる」という約束に期待し、信頼してよいのではないでしょうか。
そしてもしそうなら、私たちはもっと
私たちのうちにいます聖霊に「聞く」という意識を大切にすべきです。
日々、心のうちに、聖霊のための余白を・・・。
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