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執筆者の写真元気牧師

1月9日(火)



【聖句】


朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、

人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。


(新約聖書・マルコによる福音書1章35節)



【黙想】


イエスさまは神の御子だから祈る必要がなかった、のではありません。

むしろその逆で、イエスさまは神の御子だからこそ、

祈ることの大切さを誰よりもよくご存じで、

どんなときにも父に祈ること、

父と交わる時を「最優先」にしていらっしゃいました。


一度でいいから、わたしは柱の陰から見てみたいです。

イエスさまが祈っておられる姿を・・・。



さて、昨日手にとった祈りの本の冒頭の言葉を、

少し長いですが、分かち合いたいと思います。



 クリスチャンのまずなすべき仕事は、誰の場合であっても、祈ることです。単純、明快です。ところが、ただ祈るだけでは足りないのではないかと私たちは思ってしまいます。神のために何か大切なことをしたい、神にとって大切な人間になりたい、と思うのです。何かを建設したい。人々を導入したい。わたしの力を示したい。影響力を行使したい・・・。そういったことに比べると、祈りはいかにも小さいことに思われるのです。
 けれども、イエスはそうは言われませんでした。イエスにとって、祈りはすべてでした。特権であり、同時に義務でした。責任であり、しかも権利でした。
 祈りを最後の手段と考える傾向が、わたしたちにはあります。しかしイエスはそれを「戦い」の第一線に置くよう望まれました。ほかにどうすることもできないときに、私たちは祈ります。しかしイエスによれば、何をするよりも先に、まず祈るべきなのです。・・・祈りは神がわたしたちに課しておられる日課ではありません。私たちのなすべき仕事です。なすべきただ一つの仕事です。祈りは私たちの聖なる業です。単純で明白です。

オズワルド・チェンバース『「祈りの時」を変える黙想』より

祈りは最後の手段ではなく、祈りは第一のものであり、すべてである―。

心に刻みたいと思います。














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