【聖句】
どのような時にも、
“霊”に助けられて祈り、願い求め、
すべての聖なる者たちのために、
絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
(新約聖書・エフェソの信徒への手紙6章18節)
【黙想】
昨日は「今日の聖句」を更新できなくてごめんなさい。
気づいたのがもう日も傾きだした頃でしたので、
一日お休みとなってしまいました。
楽しみに待っていてくださった方にお詫びいたします。
実は息子がインフルエンザでかなりの高熱を出しまして、
家事やらなにやらいろいろとバタバタしておりました。
いつも元気が有り余っている子が弱々しく横たわる姿は可哀想でしたが、
幸い薬が効いたのか、40度近い高熱は収まった様子で
少しは食事をとることもできたようです。
さて、昨日は全国連合長老会の常置委員会がオンラインで開催され、
能登半島地震の状況なども詳細に報告をお聞きすることができました。
この会議の冒頭の開会礼拝の際、
議長はエフェソの信徒への手紙から説教されました。
その時に読まれたのが、6章18節以下の御言葉です。
・・・・
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
・・・・
獄中にあるパウロが、
エフェソの兄弟姉妹たちに対して、
離れている同じ信仰の友を含むすべての信仰者たちのために
絶えず目を覚まして根気よく祈り続けよと命じていること、
また、苦しみの中にある自分自身のためにも祈ってほしい、と懇願していること…。
これらの御言葉こそ、
今の私たちに求められていることではないか、と語られました。
わたしはハッとしました。
確かにそうだ、と思いました。
駆けつけたくても、今は行くことができない。
物資を届けようにも、そのこともかなわない。
そういう状況の中で、私たちがなすべきことは
「絶えず目を覚まして根気よく祈り続ける」ことなのです。
もちろん、私たち自身が駆けつけたり、
物資によって援助することも
相応しいタイミングでなされれば大きな意味を持つでしょう。
しかしよくよく考えれば、
すべてのことを相働かせて最善の御業をなさる神様が立ち上がられ、
力強い御腕により、深い憐みにより、これを助けてくださる、
このことのほうがはるかに大きな大きな意味を持つことではないでしょうか。
「祈ることしかできない」というのは
なんだかもっともらしく聞こえますが、
なんだか、「神様の助けなんてあてにできない」って言っているような気がしてなりません。
パウロの時代の兄弟姉妹たちはきっと、
各地の教会が苦しみにあっていることを聞いたとき、
もちろん具体的な支援も画策したでしょうが、
何よりもまず、祈った。
生きて働かれる神に祈った。
そしてそののちに、しかるべき時、しかるべき方法で助けの手を伸べたのだと思います。
誰よりも祈りの力、
神の御力を知っているパウロ自身もまた、
「救援物資を送ってくれ」と切望するのではなく、
「わたしのために祈ってくれ」と懇願しています。
あなたは今、祈ることに無力感を覚えているかもしれない。
もしそうであるなら、いま、
使徒の言葉をもう一度まっすぐに受け取ってください。
どのような時にも、
“霊”に助けられて祈り、願い求め、
すべての聖なる者たちのために、
絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
アーメン。
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