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執筆者の写真元気牧師

1月19日(金)



【聖句】


モーセは一つの天幕を取って、

宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、

それを臨在の幕屋と名付けた。

(旧約聖書・出エジプト記33章7節)



【黙想】


主に伺いを立てる者はだれでも、

宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった」と続きます。


モーセは、祈りの必要性を誰よりも知っていました。

自分にとっても、民にとっても、

主に祈ること、主と共に交わることが必要不可欠なことであることを、

誰よりも強く確信していました。


彼は祈りのため、交わりのために、

特別な部屋をすら設けたのです。


その名も「臨在の幕屋」。


そこは主ご自身と会見し、

交わる場であるということでしょう。



兄弟姉妹、

私たちにもこの「臨在の幕屋」が必要ではないでしょうか。

そして、「祈り」ということに対する考え方をチェンジする必要があるのではないでしょうか。


モーセは、祈るための部屋を、

「祈りの幕屋」とは呼びませんでした。

「臨在の幕屋」と呼んだのです。


私たちは「祈ろう、祈ろう」とするあまり、

口を動かし、頭脳を働かせすぎて、

祈りが個人プレーの独り相撲になってはいないでしょうか。


わたしは「毎朝、祈りましょう」と勧めることはしません。

そのかわり「毎朝、主と共に過ごす時間をとりましょう」と勧めたいと思います。


たとえば朝の30分をささげるなら、

あなたがマシンガンのようにしゃべり続けて間を埋めようとしないでください。


ペチャクチャと祈り続けないと、って思うから、

祈りの時が苦痛になり重荷になってしまうのです。


神の御前に、ただ佇むだけでよいのです。

神の御前に、神の子として、いるだけでいい。

子どもがその父親の背に寄りかかるように。

幼子がその母の胸に抱かれているように。


主の臨在そのものを受け取って、味わって、静まって。


その平安の中で与えられた言葉を、

主に申し上げればよいのです。


間を埋めようとして、

頑張って話そうとしなくていいのです。

















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