【聖句】
わたしの仕えているイスラエルの神、
主は生きておられる。
(旧約聖書・列王記上17章1節)
【黙想】
民の深い罪によって
イスラエル統一王国が南北に分裂した後、
北イスラエル王国は
信じられないほど堕落していきました。
とりわけ第7代の王アハブは、
異教の祭司の娘イゼベルを妃に迎え、
偶像の神のための神殿を建て、
その偶像の神を礼拝しはじめたのです。
このように王国が
主なる神への信仰から
まるっきり離れ去り、
王国が最悪の状態にあったとき、
颯爽と一人の預言者が登場してきたと
聖書は語っています。
それが預言者エリヤです。
彼は突如聖書の表舞台に
登場するやいなや、
アハブ王に対する神の裁きとして
「数年の間、雨が降らない」ことを
告げたのですが、
そんな彼の語り始めの
開口一番の第一声は
このような言葉でした。
わたしの仕えているイスラエルの神、
主は生きておられる。
二つのことを分かち合いたいと思います。
一つ目。
エリヤは、物言わぬ偶像を
拝んでいた王や国民らに対して、
生けるまことの神を証するために
現れた預言者であったということです。
主は昔も今も、
生ける神を証しする者を求めておられます。
二つ目。
しかしそのためには、
頭だけで、頭の知識だけで、
主は生きておられると分かっているだけでは
ほとんど意味がありません。
主なる神様が
本当に生きて働かれるお方であるということを、
本で読んだ言葉や
誰かの受け売りの言葉としてではなく、
自分自身の心のどん底からの
言葉として語り出さねばならなりません。
エリヤの言葉は、
本当に実感の伴う、
生きた言葉だったはずです。
わたしの仕えているイスラエルの神、
主は生きておられる。
彼は、神さまに仕えていました。
実際に、体を使って、
生活そのものの中で、
神様を体験していたのです。
わたしたちもまた
ぜひとも、
主は生きておられるということを
体で味わい知りたいと思います。
神様を信じているあなたが、
もっと神様を信じるように。
もちろん神様は生きておられるとは
思っていたけれど、
主は本当に生きておられ、
本当に私のためにお働きくださる方なのだ、と。
「信仰って、こんなもんかな」と
見限ったり、知ったように思ったり
成長を諦めたりしないでください。
使徒ペトロはこう言いました。
私たちの主であり、
救い主である
イエス・キリストの恵みと
知識において 成長しなさい。
(Ⅱペトロ3:18)
私たちが生ける神様に出会うために
二つのことを申し上げたいと思います。
こんなこと祈るまでもないかと
思われるような小さなことも
祈ってみる。
そうすることで、
本当に生活の隅々まで主の慈しみが
行き渡っていることに気づけるようになります。
さらに、
こんな祈り大きすぎるかな
と思うような大きなことも
ひるまずに祈ること。
あなたにとっては大それたことでも
神様にとってはそうではありません。
全能の主なる神様に相応しい
大きな祈りを大胆にささげましょう。
そうすることで、
主が生きて働かれる方であり、
力ある神であることを
わたしたちはこの目で、
この体で、味わい知るでしょう。
【小さな祈り】
主なる神様。
王をも恐れず、
不信仰で残忍な王妃にもひるまず
わたしの仕えているイスラエルの神、
主は生きておられる、と
語り出すことができるほど
あなたを深く体験して知っていた
エリヤの姿にあこがれを抱きます。
主よ、
天地万物をお造りになり、
存在していないものを呼び出して
存在させることもおできになる
あなたに不可能なことはなく、
あなたにとって大きすぎることも
ありません。
どうか私が
あなたにより多く、より大きく
祈る者とされますように。
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*あなたの言葉で祈りましょう。
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アーメン。
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