【聖句】
信仰によって、アブラハムは、
試練を受けたとき、イサクを献げました。
(新約聖書・ヘブライ人への手紙11章17節)
【黙想】
旧約聖書の創世記22章は、
読者にとって躓きとなるような箇所です。
待望の息子、約束の子、イサクを与えられ、
喜びと感謝の中にあったアブラハムに、主が、
「あなたの愛する独り子を、ささげよ」と命じられるのです。
私たちはこの主のご命令に対して、
主の冷酷さや非情さを見るのではないでしょうか。
「なんで主はこんなことを命じられるのか!」と。
このように感じるのも無理はないことだと思いますが、
この神様の言葉を「神様とアブラハムとの関係性」を抜きにして一方的に裁いてしまうのは間違っていると言わざるを得ません。
以前、幼稚園に見学にこられたある親御さんが、
こんなことをおっしゃいました。
「走っていて転んだ子どもに、ある先生が『泣かなくて偉かったね!強い!』って声をかけていました。でもああいう時には、まずは駆け寄って『大丈夫?』って聞いてあげたほうがいいんじゃないですか?」
その親御さんの言っていることが間違っているというつもりはありません。
確かに、すぐ駆け寄って「だいじょうぶ、痛かったね」と声をかけることが必要になる場面はありますから。
しかしわたしは、その親御さんにこう答えました。
「保育は、一人の子どもと先生とが、長い時間をかけて交わし合う手紙のようなものなんですよ。その先生があの時、あのように声をかけたのは、それまでの2年間に先生とその子が交わし合った言葉、関わりあった絆の中で紡がれた声掛けなんですよ。」
たった一場面の、たった一言を、
その場にひょいと来ただけの人が、どうして適切に聞き取り理解することができるでしょうか。
主なる神様の言葉も、これと同じなのです。
神様とアブラハムの関係。
75歳で召されたアブラハム。
本当に信仰によって旅立ち、苦しみ、悩み、葛藤しながら、
そのたびごとに主に助けられ、教えられ、作り変えられてきた。
そして本当に主の御言葉は真実で、
主の約束は必ず実現すると、
書物や受け売りの知識としてではなく、
我が身をもって味わい知っていった。
それが、アブラハムであり、
彼と彼の神の物語だったのです。
「あなたの愛する独り子を捧げなさい。」
確かにこの命令は、
アブラハムにとっても当然あり得ないことだったと思います。
本当に大きな大きな試練だったのです。
しかし聖書はこう言います。
・・・・ 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。・・・アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
・・・・
聖書は言うのです。
アブラハムは信じていたのだ、と。
神は、人を死者の中から生き返らせることもお出来になる、と。
つまり、主は私がイサクを捧げても必ず返してくださると信じていたというのです。
兄弟姉妹。
神さまとあなただけの、物語があります。
他者には理解されない、入り込めない、
神様とあなただけの物語が。
そして主はその物語の中で、
あなたの、あなたのためだけの、特別なご計画をもって、
あなたの信仰を育んでくださいます。
焦らなくていいのです。
神様がちゃんと、あなたを育て、教え、作り変えてくださいますから。
そしていつの日か、きっと、
あの頃の自分だったら絶対に聞き従うことも信じることもできなかったであろう主の御言葉をまっすぐに受け入れ、あの頃のあなたには決して成し遂げることもできなかったであろう主の御業のために用いられるときが来るのです。いや、もう来ているのです。
さあ、周りをキョロキョロするのをやめ、
他者に理解してほしいという欲求を手放し、
静まって、主があなたに、あなただけに
命じておられることを聞き取ってください。
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