【聖句】
主はわたしの泣く声を聞き、
主はわたしの嘆きを聞き、
主はわたしの祈りを
受け入れてくださる。
(旧約聖書・詩編6編9節)
【黙想】
幼稚園でのひとこま。
職員室のドアをあけて
小さな子どもが入ってくる。
そのとき、
何のかげんか、扉にゴンと
頭を打ち付けてしまいました。
音からして、
結構痛そうな感じ。
そのこは今にも
泣き出しそうに
なっていましたが、
職員室の中に
担任の先生がいないのが
分かると、
傍から見ても分かるくらい
すっごく、すっごく
我慢して、泣かずに
部屋を出ていったそうです。
そんなこぼれ話を
聞きながら、
息子が小さかったときのことを
思い出しました。
たとえば公園で遊ぶ。
そしてつまずいて転ぶ。
何かにびっくりする。
よく見ていると、
泣きはじめるタイミングが
とっても興味深い。
転んだときに
泣くのではない。
びっくりしたときに
泣きはじめるのではない。
痛いと感じた直後、
振り返って
私と目が合うと、
そこから泣きはじめる。
ビックリした直後、
泣かずに私にもとに
駆け寄ってきて、
わたしにギュッと
抱きしめられてから
泣きはじめる。
もちろん、
よほど痛ければ転んだ
瞬間に泣きはじめるのでしょうけれど、
大半の場合は、
親の存在を認識してから
泣きはじめることが多かった
ように記憶しています。
そして泣いたら、
泣いた分だけ、
強くなっていった。
たくましくなっていった。
そんなふうに思います。
とても興味深いことに、
(もちろん程度や、時と場合で異なるでしょうが)
もしかすると子どもは
痛くて泣くのではなく、
痛みを分かち合ってほしくて
泣くのではないでしょうか。
もう少し言えば、
彼らは泣く場所を
持っているから、
泣けるのかもしれない。
涙を、痛みを、悲しみを、
受けとめてくれる存在を
持っているから、
安心して泣けるのかもしれない。
たとえ子どもであっても、
泣き場所がなければ
がんばってがんばって、
涙をこらえ、
気持ちを押し込める、
ということが
あるのかもしれない。
だとすれば、
私たち大人も同じではないか。
私たちは強くなったから
泣かなくなったのではない。
泣き場所がないから
泣けないのではないか。
悲しみや痛み、
苦しみや辛さを、
両手で受けとめてくれる
存在を持っていないから
泣けない、泣かない、
のかもしれません。
あなたは自分でも気づかなうちに、
めちゃくちゃ我慢に我慢を
重ねているのかもしれない。
あの職員室に来た
男の子みたいに。
無論、我慢できること、
涙をこらえることは、
一つの成長のしるしなのでしょう。
でもわたしたちには、
絶対に泣き場所が必要だと
わたしは思います。
聖書を見てみますと、
たとえばダビデは、
泣きますし、叫びますし、
うめきます。
王たる者でありながら、
彼は泣き場所を持っていた。
自分の思いを
受けとめてくださる
神様と向き合っていた。
むしろ、だから彼は
王であり続けることが
できたのだと思います。
そんなダビデの言葉を
聞きましょう。
主はわたしの泣く声を聞き、
主はわたしの嘆きを聞き、
主はわたしの祈りを
受け入れてくださる。
父なる神は
あなたがかけよってくるのを
待っておられます。
あなたの心の冷たい痛みは、
慰めれたあたたかい記憶に
変えられるのです。
父の御懐のなかで。
【小さな祈り】
慈しみ深い天の父よ。
心の中の
冷凍庫みたいなところに
悲しみや、痛み、
寂しさやつらさを
押し込めている気がします。
凍らせた涙が
たくさんあるように思います。
祈りにおいてすら、
あなたに対してすら、
心をゆるさず、
格好つけている気がします。
あなたの愛を受け入れず、
あなたのあたたかさを
拒否している心があります。
どうかあなたの愛を
ぜんぶ受け入れて、
あなたのあたたかさが
わたしのすべてを
満たしてください。
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*あなたの言葉で祈りましょう。
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アーメン。
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