【聖句】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
(旧約聖書・イザヤ書44章8節)
【黙想】
詩編23編は、大変牧歌的で平和な印象を受ける詩編ですが、
実は「牧歌的」とは程遠い荒れ野がその舞台となっているのです。
聖書の時代、聖書の土地における羊飼いたちの仕事は、
羊たちを外敵から守りつつ、彼らを憩いのみぎわ、
緑のまきばに導くことでした。
見渡す限りの荒涼とした荒れ地。
そこにわずかばかり点在する青草の原。
羊飼いはいつも荒れ野を歩きながら、
羊たちを青草の原、憩いのみぎわに伴うのです。
ダビデは言いました。
・・・・ 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
・・・・
荒れ野で青草の原、憩いみぎわを見つけることは至難の業です。
同じように、波乱万丈を絵にかいたようなダビデの荒れ野人生において、
常に、どんなときにも「青草の原」を見出すのは、
ほとんど不可能なことでしょう。
しかし、ダビデは告白します。
羊飼いである主が、
自分のために絶えず、すべての必要を備えてくださっていると。
エルサレムの王宮でも、荒れ野の洞窟でも、
どこにあってもです。
わたしは思います。
これはダビデだけの特権ではありません。
あなたもわたしも、主からすべの必要を満たしていただいているのです。
問題は、私たちがそれに気づけないこと。
私たちは「足りない、足りない」と言います。
主は「私の恵みは、あなたに十分」とおっしゃいます。
「わたしにはあれが足りない、これがない・・・。」
このような思いは、実は、
そのように思いこまされているだけなのかもしれません。
本当は私達も「わたしには何も欠けることがない」って言えるはずなのに、
神さまと私の間にいろいろなものが入り込みすぎて、
自分が不足している、乏しい、貧しい、不幸だと思い込まされてしまっている。
身の回りには恵みが溢れかえっているのに、
「感謝、感謝」ではなく、「ない、ない」とつぶやいている。
大きな災害に見舞われ、避難生活を余儀なくされるとき、
私たちは「一日も早く日常が戻りますように」と願います。
日常・・・。
平時にはなんとも思いっていなかったようなことが、
非日常時には輝く宝物に思えてくるのです。
あなたの日常は、奇跡なのです。
あなたの今日は、今は、この上ない恵みの賜物なのです。
ダビデは主なる神様にこう言いました。
・・・・
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
・・・・
ダビデは今、目の前にある食事に、神の奇跡を見ています。
一杯の味噌汁に涙を流しつつ、
神の恵みを味わっています。
あなたには、ほんとうに、
まだ何かが足りないのでしょうか。
Comments