まもなく教会は、
クリスマスを待ち望むアドベントを迎えます。
私はこの25~26日に、18年前に夏期伝道実習でお世話になった広島県呉市の呉平安教会の伝道礼拝で説教奉仕させていただきました。
積極的に伝道に励み、特別集会なども頻繁に行っていた呉平安教会。
しかしコロナ禍以降、ほとんどの対外的な集会を休止していました。
その間に、長く牧会伝道に励まれた牧師が辞任。
新しく若い教師夫妻を迎えて再出発していたところでした。
来年、創立120周年の節目を迎えるこの教会が、
メモリアルイヤーに向かう歩みを力強くスタートしたいと願われ、
コロナ禍以降初めての特別伝道礼拝の実施を決断されたのです。
そしてそのような祈りの中で、
18年前の夏期伝道神学生であった私に声をかけてくださったのでした。
大きな祈りと期待に包まれ、私も万感の思いを込めて奉仕をさせていただきました。
今回の広島訪問で、私はたくさんの恵みをいただき、
印象深いたくさんの出来事がありました。
その中の一つをご紹介したいと思います。
近鉄特急と新幹線を乗り継ぎ、
18年ぶりに広島駅に降り立った私。
夕暮れのオレンジ色の光が差す駅のホームに立ったとき、
わたしは思わず声が出ました。
「イエスさま、広島です!」
思わず口をついて出た自分の言葉に自分で驚き、
あの日から今日まで守り導いてくださった神様の恵みを思って
目頭が熱くなるのを感じました。
何でもない一言かもしれません。
イエスサマ、ヒロシマデス。
3秒で言えてしまう言葉でしょう。
しかしこのたった一言の中には、
私の18年間の思いのすべてがこめられていたのだと思います。
そしてきっとイエスさまは、
あのたった3秒たらずの私の言葉に、
18年分の思いのすべてをくみ取り、
しかと受け取ってくださったに違いないと思うのです。
兄弟姉妹。
祈り。それは「何分すればいい」「長時間しないといけない」とか、
「こういう言葉で、こんなふうに祈らないといけない」とか、
そういうことではないと私は思います。
祈りとは何かを論じたり、
祈りって何だろうと考えこむ時間があるなら、
とにかく祈りはじることです。
小さな子供が「ことば」を獲得していくプロセスを見てください。
あれこれ分かったうえで、
満を持して話し始めるのではありません。
先に口を開くのです。
見よう見まねで語り始めてしまうのです。
その中で、言葉を習得していく。身に着けていく。
わたしは、祈りも同じだと思います。
もちろん、イエスさまの御名によって祈ることができる恵みや、
父なる神様がどのような方であるかという真理は、
しっかりとわきまえておく必要があるでしょう。
しかし、これとて、
祈りの中でこそさらに深く認識していく事柄ではないでしょうか。
アドベントを控えて、
教会はあわただしさの中に突入する部分もあるでしょう。
「牧師はクリスマスの期間はずっと全力疾走しているようなものだ」とある人は言いました。牧師だけではなく、長老やCS教師、幼稚園の先生や各クワイアの皆さんもそうでしょう。
このあわただしさは恵み。確かにそうだと思います。
でも、心の一番深いところでは、
イエスさまとあなただけの静かな場所を―。
そこに逃れていけば、いつでも、慰めと癒しをいただける聖所を―。
・・・・なんてことを言いながら、
私は今日、思い出しました。
毎朝の聖句配信を完全に失念していたことを。
待っていてくださった方がいらっしゃいましたら、
平謝りに謝ります。ごめんなさい。
満を持して!?アドベント第一主日から再開したいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
皆さんに主の恵みと平和を心よりお祈りいたします。
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